聖書契約的世界観を持とう


世界観は、昔から形として表現されてきた。

象や亀が世界を支えている図を見たことがあるかもしれない。

様々な民族が、このように世界を表現してきた。

さて、聖書的キリスト教の世界観は何で表現されるのだろうか。

それは、幕屋や神殿である。

なぜならば、これらは御国を表現しているからだ。

神はこの世界を御国として創造された。

神はご自身の住まいとして世界を造られた。

だから、我々は、この世界を御国として見なければならない。

御国の中心では神が王座に座っておられる。

このことが、幕屋で表現されている。

イスラエルは世界の王座の国であった。イスラエルは宝の民、世界の中心的民族だった。

そして、その中心に幕屋や神殿があった。

出エジプト時代には幕屋、ソロモン以降は神殿が世界の中心であった。

その幕屋の中にも栄光の段階があった。

庭→聖所→至聖所という順番に栄光が増し、聖さが増した。

神は至聖所の契約の箱の上におられ、そこから世界を支配をされた。

この契約の箱の天使の羽が交差する隙間から神が世界を統治された。

これこそが本当の世界の中心である。

だから、我々は、世界をこのような図式で見なければならない。

我々は、学校教育によって、ヒューマニズムの影響を受けているから、世界に中心を設けたり、栄光に序列をつけることを嫌う傾向がある。

「世界に中心なんてない。誰かが俺はこの世の中心だ!と叫んだらぶっ飛ばしてやる」と考えている。

違う!

この世界は神によって創造されたのだから、神が中心だ。そして、神が指定した人々が中心的人々だ。現在世界の中心に指定されている人々とは、クリスチャンである。

これは差別ではない。「召し」なのだ。我々がえらいのではなく、神がそのように我々を指定されたのだ。

だから、我々は堂々と「クリスチャンこそ世界の中心だ」と叫んでよい。

我々の体は「聖霊の宮」と呼ばれている。宮とはもちろん神殿だ。

我々の体こそが、世界の中心、神がいらっしゃるところ、神がそこから世界を統治される場所なのだ。

だから、我々が動くことは、世界が動くことに等しい。

我々がことを行えば世界が動く。

だから、我々は世界を良い方向に改革する使命を帯びている。

(2)
クリスチャンが中心であれば、どこかの国とか時代を中心的と考えることはできないのではないか、と考える人がいる。

しかし、我々は、現実に世界の中心の移動を見てきた。

明らかに世界は動いており、中心も存在する。

20世紀はアメリカの世紀だった。

その前はイギリス。その前はヨーロッパ大陸。

その前はローマなど地中海諸国。・・・

このように、世界や歴史に流れがある以上、「中心なんて存在しない」と考えるべきではない。

我々は、このような世界の流れを何に基づいて考えればよいのだろうか。

ヒューマニズムでは、「それは単に軍事力や経済力が強い場所でしょう」と教える。

しかし、クリスチャンは、世界を神中心に見るから、そういう見方はしない。

軍事力や経済力は、真の中心に付随して起こるものだ。

ヒューマニズムの思考方法は、「パワー」中心である。しかし、聖書は、「倫理」中心の世界観を教えている。

つまり、契約的世界観だ。

バビロン、ペルシャ、ギリシア、ローマと世界帝国が起きるが、それは中心ではない。それらは、人手によらずに切り出された石によって粉砕された。

この石こそキリストだ。

今この石は、キリストを王とするクリスチャン、そして、教会だ。

キリストの王国は世界の支配者だ。

パワーは契約には勝てない。

最終的に勝つのは、柔和な人々である。

(3)
契約的世界観に立つならば、世界は幕屋の構造になっており、歴史は幕屋礼拝と同じように進展している。

幕屋礼拝において、礼拝者は太陽と同じように東から西に移動した。

中近東→ヨーロッパ→アメリカ→アジア

中心は太陽と同じように移動している。

恐らく日本は至聖所の国だろう。

日本は昔から十字架の国としてえり分けられた国だったのだろう。

古川氏という方から以下のメールをいただいた。


澎湃寄する海原のおおなみ砕け散るところ
常盤の松のみどり濃き
秀麗の国 秋津洲

(江田島健児の歌より)

秋津洲(あきつしま)とはわが国の古名であり、直訳いたしますと”とんぼの国”となります。(秋津はとんぼの古名)
神武天皇が国土を見られ、「蜻蛉(あきつ)のとなめするが如し」(とんぼが尾をくっつけ飛んでいる姿のように美しい)と言われたことからきております。
ちなみに天皇の別名も明津御神(あきつみかみ)といいます。

ですが、それはあくまでも表向きの理由です。

真の理由は、「十字架の形をとんぼに見立てている」と推察いたします。

イエスの十字架とは一般的な十字の形をしたものではなく、横木と縦木からなるT型が正しい形であります。
そして、その上に長方形の罪状版が立てられます。
想像してみてください。縦木が胴体、横木が羽、罪状版が頭部

すなわち秋津洲とは「十字架の国」、明津御神とは「十字架の神」となります。
また、とんぼの幼体「やご」も(ヤ・ゴ)ヤハゥエの子となるのです。
余談ですが日本列島も世界の縮図になっております。
本州=ユーラシア 九州=アフリカ 四国=オーストラリア 北海道=アメリカ
これらの大陸の相似性には神意を感じずにおれません。
ノアの大洪水以前のような一つの大陸に世界はもどる、という啓示のように思います。

日本は十字架が隠されている国だ。

聖書契約的に考えることになれると、日猶同祖論はしごく当たり前の説に思えてくるだろう。

 

 

2008年1月23日

 

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