何年か前にリック・ジョイナーが日本に来たときに、友人に連れられて講演を聞いた。
彼はこう言った。
みなさん、勉強すると暗くなりますよ。イエスは明るいお方だったのです。「あはは、あはは」と笑っておられたのです!
この笑い方にものすごい違和感を感じた。
人を真理から引き離す何かの邪悪な働きを感じたので、早々に立ち去った。
The Callという本の書評おいて、Kevin Reevesが2001年5月にこう書いた。
"私の意見では、ジョイナーのこの「幻」に関する本にはいずれも大きな問題がある。彼はこう述べる。イエスは、自分を第3の天に引き上げた。そして、キリストと顔と顔をあわせて会った。偉大な宗教改革者たち、そして、現代の指導者たちとも会った。そして、彼らの隠れた生活が暴露された。彼は、天使に導かれ、彼らから知恵を与えられた。最高水準の啓示と考えられることが起こった。
このジョイナーの発言と、マーリン・キャロザースのそれから、私は非常に不健全なものを感じる。
それはどうしてかというと、
どうして聖書啓示で満足できないのか?
と思うからだ。
イエスは、「神学に興味がない」?
これって、キャロザースがそういいたいことを権威付けるために言っているのじゃないの?
「現代の指導者たちとも会った。そして、彼らの隠れた生活が暴露された」?
これって、他の教職者を貶めたいために言っているんじゃないの?
どうして、そんなことを先走って人々に訴えたいの?
もし、教職者に罪があるならば、神がその時を用意して暴露してくださるだろう。
なぜにそういう神が扱う問題を自分の手におろしてきたいの?
天に昇る体験をジョイナーがしたのかどうかは分からない。
しかし、ただ一つのことは言える。
先走ったことはするな。
と。
人間が扱うことができる問題とは、具体的に証拠が出てきた問題だけだ。
だから、我々は、相手のクリスチャンや教職者が背後で何をしているかに関心がない。
出てきた問題に関心がある。
具体的に何かをしている証拠が出てきた場合に、我々はそれを取り扱うことができる。
しかし、出てきていないならば、取り扱うことができないし、それに対して詮索することもできない。
なぜならば、神の領域だから。
神はご存知である。しかし、我々は知らない。全知ではないので。
このキリスト教の一派の「幻」とか「預言」とか「啓示」と呼ばれるものは、異端のそれと同じで、自分たちの言葉を権威付けるためのトリックではないかと思う。
我々は、人間を契約的に扱わねばならない。
ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(1コリント4・5)
我々が扱えるのは、言葉と行動だけだ。
潜在性までは扱えない。