クリスチャンが雇用者にならない限り御国は前進しない


会社で働き、また、現在フリーランスの翻訳者として働いていてつくづく思うのは、ノンクリスチャンから賃金をもらっている以上、我々はノンクリスチャンの奴隷だ、ということである。

もちろん、聖書は、「ノンクリスチャンだからというので、主人に逆らってよいわけではない」と教えている。

「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」(1ペテロ2・18)

しかし、自由になれる機会があれば、奴隷は自由になるべきであるとも教えられている。

「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。」(1コリント7・21)

どのような雇用関係であれ、労賃をもらう人間は、それを与える人間に対して献身しなければならない。

フリーランスの場合、自由の幅は広いが、それでも、仕事をしている期間、その仕事に縛られるし、また、仕事の出来・不出来によって賞賛または叱責が下る。場合によっては、ペナルティを課せられてお金を没収されることもある。

仕事をくれる人がクリスチャンの場合は、自分の行動の理由を説明しやすいが、そうでない場合は、説明は難しいし、また、場合によっては拒否されることがある。

たとえば、クリスチャンがボスの場合、宣教のお手伝いに1ヶ月間アメリカに旅行に行きます、ということも可能な場合がある。休暇を取ることが比較的容易かもしれない。

しかし、ノンクリスチャンがボスの場合、そのような理由は通用しない。

誰が金を持っていて、誰が仕事をくれるか、ということは非常に重要な問題である。

本当に聖書的に理想の状態とは、クリスチャンが財力を持ち、仕事を与える権限を持つことである。

クリスチャンが仕事を与えて、雇用者になるならば、自分の聖書的ビジョンを実現するために、クリスチャンやノンクリスチャンを雇って、御国の仕事を成就させることができる。

そのような状態に達すれば、今のような遅々とした歩みではなく、御国の拡大は急速に進むであろう。

今、我々の実質的な状態はノンクリスチャンの奴隷である。ノンクリスチャンのほうが我々よりも経済的な力がある。

ノンクリスチャンのビジョンのために、我々が時間と能力を切り売りしている状態である。

これは、非効率である。こんな状態では御国はいつまでたっても出現しない。

御国の建設のためには、クリスチャンが裕福になることは絶対必要条件である。

クリスチャンが雇用者となり、司令塔となり、仕事を推進しなければならない。

それゆえ、「子孫に美田を残さず」などと言って、一代で財産を食いつぶそうなどと考えているクリスチャンはとんでもないことをやろうとしているのである。

財力のあるクリスチャンは、この地上を聖書の原理に基づいて運営するという課題を果たす上で、最大の功労者になれる権利を持っているのである。

財力のあるクリスチャンは、その働きを代代発展させるために、信仰的な子供に相続財産を渡さねばならない。信仰に無関心なエサウのような子供ではなく、信仰に関心のあるヤコブのような子供に財を譲らねばならない。

子々孫々、御国の拡大のために尽力した家族には、天において大きな報いがある。

御国は、聖書的支配に忠実な家族を通して前進するのであり、そのためには巨大な財力を手に入れなければならないのである。

今のマルクス主義的体制では、相続税により、相続権は国家に奪われているから、財力のあるクリスチャンは、聖書的体制に変えるために、代表者を国会に送り、法律を改正するよう努力すべきである。

聖書に忠実な家庭が強力な財力を発揮して、国政にまで影響を与えることなくして、日本は御国にはなりえない。

ノンクリスチャンに使われている限り、この世界はノンクリスチャンの世界のままである。

クリスチャンがノンクリスチャンを使う側に回らなければ、御国は絶対に前進しない。

 

 

2006年9月2日

 

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