クリスチャン生活の基本は、「厳密な聖書解釈」である


聖書を最終基準としないクリスチャンっていったい何だろう?

そもそも自分が信じている宗教の教典よりも自分の思想を優先する人をその宗教の信者と呼ぶことができるだろうか。

いくら仏教徒であっても、仏教の基本的な教えを拒否する人々を信者と呼ぶことができるだろうか。

たとえば、オウムのように殺人を肯定する集団がいくら自分たちのことを仏教徒と呼んでも、普通の仏教徒は「彼らは仏教徒ではない」と言うだろう。

我々は宗教に関して、教典を中心に考えなければ、正統的な信者と自称信者を区別できない。

つまり、教典を自分の思想よりも優先し、自分の考えが教典の教えと異なる場合には、自分の考えを否定することができるかどうかが、本物の信者と偽信者の違いであると考えるべきではないだろうか。

人間の教えに関する「学派」のようなものの場合、創始者の教えに欠点があれば、修正して、新しい学派などができる場合もあるが、「超越者の言葉」を扱うキリスト教やユダヤ教、イスラム教の場合、原理的に「修正」というものはありえない。

超越者の言葉を修正する人がいるなら、それは、そもそもその信仰の対象が超越者ではなかったと認めたことになる。

超越者とは、人間を超えているのである。人間よりもすぐれているのである。

人間が「人間よりすぐれた存在」の言葉を修正することができるわけがないじゃないか。

リベラリストは、自己矛盾していることにどうして気づかないのだろうか。

人間が書いた書物を批判するのと、超越者が書いた書物を批判するのとはまったく「質」の異なる問題なのだ。

人間が書いた書物を批判することは可能である。人間は絶対ではないから。

しかし、自分が絶対者だと信じる存在が記した書物を批判する人は、自分で自分の前提を否定しているのである。

実質的に彼は、その信仰の対象を「非絶対」としているのである。

「もともとの教典は正しかったが、その後改ざんが行われたから」

という言い訳は通用しない。

もし神が自分の意志を人間に伝えようとしたならば、その意志が確実に届くためにあらゆる手を尽くすだろうから。

改ざんを差し止めることのできない絶対者って何だろう?

改ざんを許し、自分の意志が届かくなることをみすみす見逃すならば、そもそも、その意志を伝える書物を著した意味がなくなるではないか。

後世の教会人によって加筆や削除が行われることを許すならば、どうして原典を著したのか。

原典を著し、人間に自分の意志を伝えた存在は、改ざんを絶対に許さない。

社訓を表し、その後それが改ざんされるのをみすみす見逃す社長がいるだろうか。

聖書の保存は、ご自身の啓示について最大の関心を寄せておられる神の御手によって絶対的に維持されてきた。

だから、我々は聖書の一字一句にこだわるように「絶対的に命令」されている。

これは、「人間は、勝手な思想を持つことを禁止されている」ということも意味する。

最近の傾向として、聖書の文言へのこだわりが失われており、十分な証拠もないのに、「世界統一を行う反キリストによる大患難」などという空想話が流布している。

本当のクリスチャンならば、このような空想話にだまされないはずである。なぜならば、聖書の文言を厳密に調べるから。

中途半端な聖書釈義じゃだめなのである。

クリスチャン生活の基本は、「厳密な聖書解釈」である。

聖書解釈が間違っていれば、生活の基礎が空想に置かれることになり、そのクリスチャンの人生は空虚化する。

私が今述べたことは、クリスチャン各人にとって極めて重要なことであることを理解されたい。

 

 

2006年9月15日

 

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