リベラル運動は基準を明示しない限りいずれ世論から捨てられる


アムネスティは死刑を「国家としての殺人」だという。

もし国家が無実の人を捕らえて殺害するならば、それは殺人だが、法律を守り平和な生活をしている人を殺すような無法者に、その行いに応じてその命を取ることを「殺人」とは言ってはならない。

それは、不義ではなく、むしろ、正義の実行である。

犯罪にそれと相応の代価を払わせなければ、犯罪は増える。

潜在的な殺人者に対して、甘い顔をすれば、それらの人間は平気で人を殺すようになる。

そうすれば、日本の治安はがたがただ。

ただでさえ、犯罪が増えて警察は対処できなくなっているのだ。

これ以上増やさないためには、日本が犯罪と犯罪者に対して厳しい措置を講じる国であることを内外に示すことである。

そうすれば、これまで日本の警察を舐めていた犯罪者は、犯罪を軽々しく行わないだろう。

「いや、刑罰を重くしても犯罪は減りませんよ。」という人間がいる。

ウソつけ。

どの組織でも、罰則が厳しくなれば、違反は減るのだ。

もしこの相関関係がなければ、そもそも罰則を設ける意味はないだろう。

アムネスティはヒューマニズムであり、聖書に基づいて「殺人」を定義していない。

だから、何でもかんでも人を殺すことを罪悪としている。

こういったリベラルな考え方、進歩派と呼ばれる考え方は、もうそろそろ人気を失いつつある。

60年代のリベラリズムの勃興とともに、死刑廃止、中絶許可、同性愛結婚賛成、ジェンダーフリー教育・・・を行った結果、社会はめちゃめちゃになった。

人々は、「あなたたちは私たちをどこに連れて行こうとしているのか?」と問いかけ始めた。

昨今の世論の右傾化の背景には、「リベラリズムへの信頼」が薄れている事情がある。

右に対する反動として左に傾いた世論の振り子は逆に振れはじめた。

もし左が正しい基準を示すことができていたならば、このような復古主義の台頭は起こらなかったはずだ。

左が失敗した根本的な原因は、「法を捨てた」ということにある。

殺人犯に対する処刑すらも反対する愚かな姿勢に、良識的な人々は、嫌悪しているのだ。

アムネスティやグリーンピースなど、リベラルがかった運動をやっている人たちは、ここで深く反省しないと、世論から完全に捨てられてしまう恐れがあることを自覚すべきだ。

自由にすべきものは自由にしてよいが、自由にしてはならないものは自由にしてはならないのだ。

彼らの欠点は、聖書律法を捨てて、人間の知恵に頼ったところにある。

宇宙の普遍的原理である、聖書律法を主張することによってのみ、リベラル運動は長期的な世論の支持を獲得できるだろう。

 

 

2006年7月8日

 

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