ミレニアムの活動内容


   聖書の教えを教会生活に留めるところなく、政治・経済あらゆる領域に適用することを目指します。現代の世界は、聖書に立っているというよりも、むしろ、ヒューマニズムという人間中心主義に立ち、人間の、人間による、人間のための活動が主流となっています。しかし、神の御言葉によれば、世界は神によって創造されたものであり、それゆえ、神の御心にしたがって統治されるべきです(創世記1・28)。 神の御心は聖書に記されており、それゆえ、世界統治の第一歩は聖書研究にあると考え、聖書研究とくに旧約律法の諸規定についての研究を行っております。

   私たちの主張は、歴史的・正統的なキリスト教信仰にしたがっており、その主要なポイントは次の5つにまとめることができます。


(1) 前提主義(Presuppositionalism)
神は無から世界を創造されたので、神の基準が唯一の最高判断基準である。それゆえ、人間は、聖書を疑うべきではなく、聖書を前提として、万物を認識・評価すべきである。この認識論は、「人間の認識能力」を前提として成立している現代世界の認識的原理とは対極に位置する。

(2) 統治主義(Dominionism)
世界は、人間に統治させるために神によって創造された。それゆえ、人間は聖書の基準にしたがって世界のあらゆる領域を統治すべきである。現在世界は、主にヒューマニズムの原理により、人間中心に支配されているが、これは真の主人である神を除外したものであり、それゆえ神の御心ではない。クリスチャンは、聖書に基づく神中心の領域を積極的に拡大しなければならない。その方法は、大宣教命令にしたがって、「バプテスマを授け」「イエスの御言葉を守るように教えること」による。武力による拡大は聖書的ではない。あくまでも、我々の方法は、宣教と教育による。

(3) 神法主義(Theonomy)
世界統治のための具体的な方法は、聖書に記されている。ここで言う聖書とは、旧新約聖書66巻全体である。そこには旧約聖書の律法も含まれる。イエス・キリストが宣言されたように、律法の一点一画たりとも廃棄されておらず、それは新約時代においても有効である。ヘブル書では、レビ系の律法が、キリスト以降、メルキゼデク系の律法に変わったと書いてある。その変化の内容は、けっして廃棄ではなく、ユダヤ民族に限定されていた規定があらゆる民族に適用できるように普遍化されたということである。

(4) 契約主義(Covenantalism)
聖書において、神と人間の関係は、契約によって定義されている。万人は神との契約の中におり、それゆえ、契約の規定から自由な人間は一人もいない。神はアダムとの間に主従契約を結ばれた(アダム契約または業の契約)。アダムは契約の規定を破り、神に逆らったため、契約の賞罰規定にしたがって、罰せられた。それは、肉体的死と霊的死であった。アダムの子孫である我々は生まれた時にすでにこの契約的刑罰の中にいるため、そのままでは永遠の刑罰にあう。イエス・キリストは、この契約的刑罰を身代わりに負って、そこから我々を救い出すために十字架につかれた。イエス・キリストを救い主、主として信じる者は、新しい契約の中に入る。それは、キリスト契約または恵みの契約である。恵みの契約の中に入ることによって、我々はキリストの御体の一部になり、キリストにあって十字架につけられ、罪を罰せられ、キリストにあって復活し、キリストにあって王となる。これは、我々がアダムにあって罪を犯し、刑罰に入れられたのとまったく逆である。キリスト契約の中にいる人々(クリスチャン)は、キリストとともに神の右の座に座っている副官であり(エペソ2・6)、神の規定である聖書にしたがってこの世界を統治するために召されている。我々は、キリストにあって、神の副官として、世界を代理統治するが、その統治においていかに忠実であるかにしたがって賞罰を受ける。つまり、聖書の祝福と懲らしめの規定にのっとって、祝福されたり、懲らしめられたりする。聖書に忠実であれば、神の国の進展は早まる。

(5) 後千年王国説(Postmillennialism)
キリストは、「わたしはすでに世を征服した」と宣言された。「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16・33)ここで「勝つ」と訳されている原語ネニケーカは「征服する」という意味のニカオーの完了時制である。完了時制は、「過去の動作の結果に基づいた現在の状態を表す」(J・グレシャム・メイチェン、『新約聖書ギリシャ語原典入門』、新生運動協力会)ので、「現在キリストが世界を征服しておられる」状態を強調している。キリストは、初臨において世界征服を実現されたのである。今我々が目の前にしている世界は、キリストの王国である。しかしこれは、法的王国であって、実際的な王国ではない。キリストがマタイ28・18において「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と宣言された時に、世界の所有権がキリストの手に移った。ここに、世界は法的にキリストのものになったのだが、しかし、実際はまだ世界がキリストを王とする世界になったとはいえない。我々クリスチャンの使命とは、この「法的な王国」を「実際的な王国」に変えることにある。つまり、大宣教命令にしたがって、福音を伝え、バプテスマを授け、キリストの戒めを守るように教えることによって、世界の「すべての国民」を弟子とすることである。世界のすべての国や国民がキリストを王として受け入れ、その法律が聖書に従う法律に変わり、生活のあらゆる領域が聖書を基準として営まれるようになるまでクリスチャンは働き続ける。そして、これがキリストの命令である以上、この命令が実現することは確実である。キリストが主権者であると同時に我々とともにいてくださるので、聖霊の超自然的な御助力によって、我々は世界をキリストの御国と変えることが可能である。

 

 

2006年3月22日

 

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