(1)
「キリスト教原理主義者は進化論を否定するイッチャッテイル人たちだ」
という意見を目や耳にするたびに、私は、
現代人の洗脳は相当奥が深い。
と感じてしまう。
自分が否定している相手を最初から「イッチャッテイル」と断定しているところがすでに自分がやられているとなぜ考えられないのですか?
進化論なんて、ちょっと考えればウソだって分かるはず。
突然変異と自然淘汰で生物の成り立ちを説明するなんて不可能。
いったん、パラダイムから外に出て考えてみよう!
自分の思考を客観視してみよう!
「キリスト教原理主義もイスラム教原理主義もどちらも・・・」という発想そのものがもう「思考停止」している。
あなたは、批判している対象の内容を知っていますか?
それについて相手の言い分を聞いたことがありますか?
まったく何の知識もないままに「キリスト教原理主義はだなあ・・・」とやるところからすでに自分がその思考停止人間になってしまっている。
思考停止と批判する人が思考停止だなんて・・・。
しかし、我々が学校教育を通じて受けた洗脳は奥が深い。
ちょっとやそっとでは取れない。
(2)私が昔から聖書研究を勧めてきたのはこれが原因だ。
クリスチャンの陥りやすい欠点は、聖書から直接学ぶのではなく、牧師の考え、処理したキリスト教をキリスト教と誤解しているという点だ。
牧師のフィルタを通ったものは、牧師の見解であって、聖書そのものでないかもしれない。
だから、聖書から直接学ぶチャンスを自分に与えるべきなのだ。
私は大学時代に、聖書研究会で、じかに聖書を学んだから、教会で牧師が語るものと聖書そのものの教えの違いを実感している。
神学的先入観なしに、直にテキストから学ぶべきだ。
そうしてコツコツ積み上げて得た結果として、私はこのHPで語っている。
何かの神学的教えをそのまま鵜呑みにしているわけではない。
だから、私は「○○先生の弟子」呼ばわりされることを拒否する。
何らかの形の洗脳を避けるには、これ以外に方法はない。
つまり、聖書をじかに読むということ。
聖書は神の言葉である。神は全知のお方であり、世界の創造者であるから、神の世界解釈が唯一の正しい解釈である。その解釈が聖書に記されているので、我々は何はともあれ、まず聖書を学ぶべきだ。
このような聖書研究なしには、我々は必ず誰かによって洗脳される。
操作される。誘導される。
この世界に悪魔がいる以上、洗脳や誘導や操作はいたるところにあり、悪魔は我々を利用するためにいたるところで網を張っている。
真理への唯一の道、それは、聖霊による聖書研究である。