律法はいのちを与えないか?4


<LUKE様>
>私は、改革主義と同様に、「心に書き記された律法」は、モーセ律法のことを意味していると考えます。(*)

なるほど。ここがひとつの違いですね。発見です。私の理解は

マタイ5:20−まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

に基づいて、<いのちの御霊の法則⊃モーセ律法>(つまり上位互換)なのです。しかも(キリストの)いのちはこれを私の努力にはよらず成就する。だからWindowsとMS-DOSの関係だと言っているわけです。MS-DOSでマルチメディアをやろうとしたら相当に大変ですが、Windowsならばきわめて簡単です。

いつも例で言うのですが、二足歩行するには相当に複雑な微分方程式を解かなくてはならない。しかし知的には無理でも、人のいのちを得ていれば、誰でも歩ける。もちろん当初の意志的訓練は必要ですが、いずれ自動的になります。法則を全うしているから歩けるわけです。

ですから、私たちの責任は旧約の時のように、直接にモーセ律法に対するのではなく、いのちに対する、すなわち御霊によって歩むことであり、その歩みおいて自然と律法(の精神)が全うされると。いのちに従っていたら、罪を犯すことはできません。(もちろん失敗はありますが・・・)

<tomi>

(1)
モーセ律法よりも優れた法ならばそれはどこに書かれてどういう法なのかが具体的に明らかにならなければなりません。

しかし、新約聖書には、そんな法はどこにも書かれていない。相変わらず、パウロは、新約聖書において、モーセ律法を引用して、モーセ律法を権威として扱っている。

もし、モーセ律法よりも優れた法があるならば、その法をパウロや聖書記者があげて解説していなければならないのにまったくないというのはおかしいですね。

繰り返して言いましょう。

「そのモーセ律法よりも優れた法というのがあるとすれば、それが新約聖書において具体的に記されていないのはなぜか?」

このことに答えがなければ、まったく補強聖句のない教理になり、正統的な教えとして広めるには、致命的な欠陥といえるでしょう。


(2)
「しかも(キリストの)いのちはこれを私の努力にはよらず成就する。だからWindowsとMS-DOSの関係だと言っているわけです。MS-DOSでマルチメディアをやろうとしたら相当に大変ですが、Windowsならばきわめて簡単です。」

いのちが努力によらずに成就するのは、モーセ律法の場合でも同じです。

このモーセ律法よりも優れた法というものでなければならないというわけではありませんね。


(3)
「私たちの責任は旧約の時のように、直接にモーセ律法に対するのではなく、いのちに対する、すなわち御霊によって歩むことであり、その歩みおいて自然と律法(の精神)が全うされると。」

御霊によって歩むことは、御霊の力によって「モーセ律法を守る」ことを意味するのです。

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8・4)

新約時代になったら、「直接にモーセ律法に対する」責任はなくなったということを証明することはできません。むしろ、聖書は逆のことを証言しています。

パウロは、信者に対して「律法も言うように、…しなさい。」と命令しています。

「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。」(1コリント14・34)

パウロは、クリスチャンに「モーセ律法を守れ」と言っているのです。

「私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。
モーセの律法には、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。 それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。…」(1コリント9・8-10)

 

 

2005年10月12日

 

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