どちらが神政政治だ?
そうであるのに、再建主義者は「再臨の前に国家権力の領域主権を征服して、神政政治を樹立することが可能である」と主張する
(1)
「征服」とか「神政政治」とか、言葉をあえて過激にして人の立場を異端として描く。
まさしく、稚拙なアジテーションである。
こういった批判というのは、知識不足というよりも、知識拒絶である。
このサイトで何度も繰り返しているように、「神政政治」ではない政治はこの世界に存在しない。
現代の国家はほとんどがヒューマニズムという宗教に基づく神政政治である。
現代国家と我々が主張する国家の違いは、「宗教」対「非宗教」という違いではない。
それは、「人間教」と「キリスト教」の違いである。
人間教は、カントによって作られた人造宗教である。
人間教がなぜ宗教かというと、「根拠なく、人間に主権を与えるから」である。
人間教では、「万物の尺度は人間である」というテーゼが中心である。
あらゆるものの最終決定権は人間にあり、他のいかなるものもない。神も人間の最終判断に依存している。
聖書にどんな教えがあっても、最後には人間が決定する。
我々を批判するこの投稿者も、人間教信者である。
「政治に関しては、聖書を最終権威とするのではなく、人間を最終権威とし、人間の判断を聖書に優先させなければならない」と主張する。
「聖書は最終権威ではない。人間の意見こそ最終権威だ」という主張をするので、この人間はクリスチャンではない。
この立場は異端であり、もし彼がクリスチャンを自称しても信じてはならない。
彼は戒規に値し、教会は彼を受け入れてはならない。
彼は、異なる宗教を信じる人であり、兄弟として認めてはならない。
(2)
人間教の基本は、デカルトの認識論である。
デカルトは、「我思うゆえに我あり」と述べた。
すべてを疑わねばならない。迷信、宗教教義、旧来の学説、すべてあてにならない。
すべてを疑っていっても、どうしても疑うことができないもの、それは、疑っている自分だ。
思考する自分は、存在する。これはどうしても否定できない。
この疑っている自分を認識の土台にすえよう。
聖書とか教理とかを土台とするのではなく、自分を土台にしよう。
そうやって、認識論において、革命がおきた。
しかし、デカルトの認識論には決定的な欠陥があった。
それは、物事の意味とか、本質、倫理、宗教、死後の世界、経験不能な世界に関して知識を得られないということだ。
だから、デカルトの認識論にたって「神などいない」とは言えない。
なぜならば、人間は万事を体験することができるわけではないから。
100億光年離れた○○星に神がいるかどうかどうして分かるか。
人間は有限であるから、ごく限られた領域についてしか知識を得られない。
だから、壮大な無知の領域が広がることになった。
カントはこの無知の問題を、人間が世界の構成者になることによって解決しようとした。
彼は、人間が宗教や死後の世界などそもそも認識が不可能な領域について確実な知識を得られないということを認めた。
それでは、無知な領域が際限なく広がるので、彼は「人間が世界を構成する者として振舞ったらいい」と考えた。
だから、死後の世界や神の存在について「それが自分にとって意味がある限りにおいて有効」とした。
自分があたかも創造者のように物事を決定していく。
だからカント以降、自然法などの超越法(ハイアー・ロー)は消えてしまい、法律も、普遍的な道徳によらず、その時代時代において世間の人々がどう判断するかによって決定されるようになった。
キリスト教も、自然法も、すべて絶対化されたものを拒否し、人間が自分で勝手に作り出した倫理が自分を支配すればよいということになった。
これが人間教である。
「私は創造者ではないが、創造者であるかのように、すべての意味を決定しよう」という立場である。
人間は神のライバルになった。
神に対抗して独自の善悪の基準を作りはじめた。
このような人間教の立場から見ると、キリスト教は自分の権限を脅かす存在である。
政治などそれまでキリスト教はかかわることを自粛してきた(本来、カルヴァンもノックスも政治にかかわった)。
しかし、再建主義は、この領域についても、キリスト教が意見をいい、活動を開始しなければならないと言い始めた。
人間教の人々から見れば、再建主義は脅威である。
それまで自分の考えでやってこれた世界に入ってきたよそ者である。
しかし、この世界は神が創造されたものである。だから、よそ者は人間教の人々である。
彼らは首尾一貫していない。
クリスチャンは、「神は万物を創造された。だから、神は万物について最高権威である」と述べる。
しかし、人間教の人々は、「我々は万物の創造者ではない。しかし、我々は万物について最高権威である」と述べる。
人間教は、カルトなのだ。
「理屈も何もない、とにかく俺は神だ!」という人に似ている。
人間教の人々は、我々のやろうとしていることを「神政政治」と批判するが、我々から見れば、彼らのやっていることこそ「神政政治」である。
ものは深く考えずに、印象だけで判断すると間違うから注意しよう。
2009年9月17日
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