同胞を利用してはならない
最近、「同信の友から搾取する」という悪行を頻繁に目にしてきたし、また私自身も体験してきた。
これは、教会が信徒に律法を教えてこなかったからである。
律法は、「ユダヤ人の同胞に金を貸す場合、利子を取ってはならない」と定めている。
これは、当然のことながら、新約時代においては、「クリスチャンに金を貸す場合に彼から利子を取ってはならない」と解釈できる。
イエスは、この律法をさらに強めて、「返してもらうことを期待せずに貸せ」とすら述べておられる。
これは単なる貸し借りについての教えと考えてはならない。そこには、もっと広い事柄を扱うための原理が含まれている。
その原理とは「クリスチャン同士の関係は損得勘定に基づくものであってはならない」ということである。
パウロは互いに訴えあっているクリスチャンに向かって、「騙されるなら騙されたままにしなさい。互いに訴えあうことがすでに敗北だ」とすら述べている。
クリスチャン同士の間では損得の原理ではなく、純粋な愛の原理によって行動すべきだ、ということである。
今日クリスチャンは、律法を捨て、しかも、「伝道」がいびつな形で強調されているために、教会において未信者には親切だが、同信の友には不親切になるという逆転現象がある。
律法は、愛はまずクリスチャンに対して向けなければならない、と教えている。そのような愛があってはじめて未信者に対する証になると。
「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13・35)
聖書において愛の対象には順番がある。まず家族、次に親族、そして、クリスチャン、そして未信者である。
こういった同胞意識はイスラム教徒のほうが強い。彼らは家族や親族を大切にし、他のイスラム教徒を兄弟姉妹と考え、格別に優遇する。
これは、聖書の文化の背景にあるセム系民族の伝統でもあるだろう。イスラム教徒と話していると、随所に旧約聖書の律法の影響を見るのである。
教会は律法を捨てたことによって、愛の具体的な方法をも捨てた。そのため、血縁親族に対する無視や、同胞クリスチャンに対する搾取などがはびこる結果となった。
預言者がイスラエルに対して糾弾した罪の中に「同胞から利息を取ること」を挙げている。
「おまえの中では、血を流すためにわいろが使われ、おまえは利息と高利を取り、隣人を虐待して利得をむさぼった。おまえはわたしを忘れた。――神である主の御告げ。―― 」(エゼキエル22・12)
「同胞に対する搾取」は堕落の一つの目安であり、それゆえ、今日のクリスチャンが神の裁きの目前にいることが分かるのである。
2004年4月12日
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