再建主義批判のサイト(米)への応答12


文化のキリスト教化には、すべての民族をクリスチャンの民族に変えることも含まれている。すべての政府は、その全組織をキリストの法に従わせることによって、キリストと協働する政府――つまり、神裁的共和制体――に変わらなければならない。社会の他のすべての分野(「自己、家族、制度的教会、ビジネス/職業、私的な付き合い」)も、キリストの法に従わなければならない。再建主義によれば、統治命令もしくは大宣教命令を成就するには、3つのことが実現されなければならない。


(a) 大多数の人々が真の回心を体験すること。

(b) クリスチャンは、社会のすべての分野を統治しなければならない。これは、「クリスチャンは政治・社会的活動に参加しなければならない」ということを意味する。

(c) クリスチャンが世界を統治するようになる時、彼らは社会のすべての分野を、旧約律法に従わせなければならない。旧約律法とは、神が、シナイ山においてイスラエルに対して与えたモーセ律法のことである。

<tomi>
我々が社会に適用しようとしているのは、正確に言えば、モーセ律法ではなく、「メルキゼデクの律法」である。

ヘブル書にあるように、「祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければならない」(ヘブル7・12)。旧約時代、祭司職はレビ族に担われていたのであるが、新約時代になって、ユダ族のキリストが担うことになった。このキリストは、ヘブル書において、「メルキゼデクに等しい位の祭司」と呼ばれている。

祭司職の変更に伴って、律法も変化した。つまり、「レビ系律法」から「メルキゼデク系律法」へと変化した。ある人々は、新しい律法は、レビ系律法とまったく異なるものであると解釈するが、それを裏付ける根拠はどこにもない。

ヘブル書では、レビ系律法からメルキゼデク系律法への変化を次のように列挙している(<注>を参照)。

http://www.millnm.net/qanda3/430kHSrmh7D283195.htm

ここでは、レビ系律法が「予型」であるのに対してメルキゼデク系律法が「本体」であるという違いが示されている。

つまり、メルキゼデクの律法とは、バージョンアップしたモーセ律法のことなのである。新約時代になって、モーセ律法は、バージョンアップして、メルキゼデクの律法になった。それまでは、「予型」でしかなかったものが、本体であるキリストが現れたことによって、「本体化」したのである。メルキゼデク律法は、本体化・実体化した律法である。

モーセ律法において動物犠牲は、キリストの犠牲を指し示すモデルであった。しかし、メルキゼデク律法においては、本体であるキリストが登場しているので、それまで「何度もささげられていた犠牲」が「一度限りの犠牲」に置き換えられた。

我々は、旧約聖書と新約聖書の律法の位置付けの違いを、「予型」から「本体」への確立と考える(これは、カルヴァンも取っていた宗教改革の正統的な律法観である)。

それゆえ、我々は、新約時代になって、律法の一部たりとも廃棄されていないと考える。「変化」はあったが、「廃棄」はなかった。政治的律法、軍事的律法、その他すべての律法が、新約時代においても有効であると考え、それを世界に適用しなければならないと考えるのである。

 

 

2006年2月24日

 

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