クリスチャンを学問嫌いにさせた元凶


福音派にいたころ、よく「神学がどうかは問題ではない。聖書に何と書かれてあるかが問題だ」と牧師が言うのを聞いた。

神学とは、聖書に何が書かれてあるかを調べる学問だ。

だから、完全に矛盾している。

どうして牧師がこういうことを言いたがるかというと、人気取りなのだ。

つまり、庶民派をきどっているのだ。

こういう欺瞞的な方法を取るとどうなるかというと、信徒が無知になる。

私は、再建主義に関する問題を長老会で取り上げられたときに、長老があまりにも勉強していないのでびっくりした。

「彼らは契約神学などというわけのわからないものを主張しておる」と。

カルヴァン派の教会の長老が、契約神学を知らない?

恐ろしいことだ。

教育は、相続の重要な側面である。

子供に教育を授けるのは、先人が学び探ったことを継承するためだ。

そして、さらに高い文化を築くためだ。

だから、学問を軽視するならば、相続を軽視することに等しい。

庶民派に見られてたくて、学問を軽視する発言をしてきたため、福音派をはじめ今の一般のクリスチャンは、完全な無知に陥った。

キリスト教書店に並んでいるのは、ハウツーものばかりだ。

勉強しているのは、むしろリベラルとかバルトの人々。

しかし、これって、勉強しても意味がない。

聖書を土台としていない神学などやっても時間の無駄。

パウロが言う「この世の知恵」「この世の知者」だ。

空想を勉強して何の意味があるのか。

聖書信仰に基づく学問じゃなきゃ意味がない。

さあ、今の教育機関は、小学校から神学校に至るまでピントがずれている。

御言葉から大きく外れた。つまり、カルトになった。

偶像礼拝になった。

私の予想では、聖書的なカリキュラムを組めば、大学まで14年かけて勉強する必要はないだろう。

おそらくその半分以下ですべてやれるだろう。

平等をうたったために、能力に差がある人々を一つのクラスにまとめるからよくない。

それから、人の才能は多様だ。勉強だけが能力であるかのような間違った価値観を植えつけられるから子供たちが歪んでしまった。

スポーツがとくいなら、読み書きなど基礎的な勉強をおさえたら、運動の方面を選択できるようにすればいい。

芸能がとくいなら、そういう分野に進めるようにクラスを用意すればいい。

だから私は今のクラス制など無意味だと考えている。単位制にして、履修したいクラスを選択できるようにして単位を取って卒業できるようにすればいい。

今の学校のクラス制は、「統一行動ができる人間を養成する」という隠れた狙いがある。

だから、いじめなどが差別が起きる。

自分に向いた世界に早く進ませてあげること。

向いていないことは早めに卒業させてあげることだ。

こういう多様な道を大人が肯定できるようになれば、牧師や伝道師が「勉強なんかしても意味はない。神学をやると暗くなる」なんてハッタリをかまさなくなるだろう。

 

 

2009年12月5日

 

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