2度目の携挙・再臨は「徐々に」実現するのか


現在神学的な発展は終末論において顕著である。

ますます人々はプレテリズムを信じるようになってきている。

つまり、聖書は、世界全体の終末のことを語っているというよりも、紀元70年におけるイスラエルの終末について語っているという考えである。

なぜならば、黙示録など使徒たちが送った手紙は、「当時生きていたクリスチャンに向けられていたから」である。

警告や約束は、当時のクリスチャンのためであった。

となると、今のプレ・ミレを信じているクリスチャンが主張するところの2テサロニケの携挙とは、我々の未来に起こることではなく、当時の人々つまり、「第1世紀のテサロニケのクリスチャン」に起こることであると考えられる。

パウロがテサロニケの人々に向けた書いた携挙は、我々に関することではなく、第1世紀のテサロニケの教会の人々に関することだった。

ここで疑問が起こるだろう。

「では、携挙など聖書の約束はもうすでに紀元70年に成就して我々には関係がないのだろうか。」と。

フルプレテリズムは「イエス」と答える。

しかし、パーシャルプレテリズムは「ノー」と答える。

フルプレテリズムは、すべては紀元70年に成就したというのである。だから、大宣教命令も、悪魔との戦いもすでに終了したというのだ。

しかし、我々の周りには悪魔が満ちている。宣教も完了したなどとはとてもいえない。まだまだ、宣教未開拓地がある。

フルプレテリズムは現実とあまりにも乖離し過ぎている。いくら「現実ではなく、聖書によって聖書を解釈せよ」と言っても、あまりにも現状は聖書の約束された未来の姿と異なっている。

パーシャルプレテリズムは、こう考える。

すなわち、「清めには2段階あるのだ」と。

旧約聖書において清めは、2段階で完了した。1度目は3日半後に、2度目は7日後に。

歴史も同じである。紀元70年は、1度目の清めなのである。

キリストの来臨と旧世界への裁きによって、世界は法的に清められた。

パウロは、天地にある一切のものがキリストの十字架によって清められ、神と和解した、とコロサイ1・20で述べている。

法的清め・和解では足りない。実際的清め・和解が必要である。

その2度目の清め・和解は、我々の未来に来る。

我々は、今、清めと和解の途上にある。

宣教はそのためにある。法的にキリストの御国になったこの世界を、実際にキリストの御国らしくするために宣教はある。

この働きは、着実である。一挙に変わるというものではない。

プレ・ミレは、携挙に続いて、裁きがあり、新天新地が現れて一挙に世界が変わると考えるが間違いだ。

世界の変革の予型は、ヨシュアのカナン征服である。

ヨシュアはまず神から「カナンの土地の権利移譲」を宣言された。この宣言で、所有権はヨシュアとイスラエルに移った。

カナンの人々の罪があまりにもひどいため、神はカナン人を追い出すことに決定された。そして、その代わりにイスラエルをそこに住まわせようとされた。

これは法的な変革である。しかし、これだけで、実際の戦いを行わなければ、意味がない。

法的にイスラエルのものになったカナンを戦いによって征服しなければならない。

ヨシュア記にはこの経過が記されている。

お分かりだろうか。

世界も同じように、本当のヨシュア(つまり、イエス)の指導のもとに戦い、それによって世界を回復しなければならない。

我々が活動し、様々な領域を聖書的に変えることによって回復は進み、世界の変革が実現する。

聖書の法による世界支配を前進させることこそ、我々の使命である。

では携挙や再臨とは何か。

携挙と再臨は紀元70年において起こったのである。

しかし、それがすべてではない。

第2の携挙と再臨がある。

それは、議論のあるところだろう。

私の現在の仮説は、それは、クリスチャン個々人の死と復活である。

我々は、肉体的死とともにこの地上を離れ、瞬時にして「朽ちぬ体」「霊的体」によみがえる。

イエスが言われたように「生きていて私を信じる人は死なない」のだから。

1度目の清めによって世界は法的に「瞬間的に」変革された。

2度目の清めによって世界は実際的に「徐々に」変革される。

そのため、1度目の携挙・再臨が「瞬間的」であり、紀元70年に成就したが、2度目の携挙・再臨は「徐々に」実現するのではないだろうか。

聖書において、第2の携挙・再臨が瞬時に起こると記している個所はない。

これは、最新の議論である。であるから、軽々に判断すべきではない。さらなる研究が必要だ。

 

 

2007年3月12日

 

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