日本に関する仮説15
(1)
聖書に陰陽思想があると言うとびっくりするだろう。
しかし、聖書は、この世界が、2つのものの対立により成立していると述べている。ここで「対立」といっても「争い」という意味ではない。
対照的なものが2つあるということだ。
たとえば、神は人間を「男」と「女」に創造された。
磁石は「プラス」と「マイナス」から成り立つ。
一日は、「昼」と「夜」から成り立つ。
物体には、「光が当る部分」があれば、「陰の部分」もあり、「表」があれば、「裏」もある。
創世記の創造の個所は、1つのものを2つに分ける作業を通じて進む。
「神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」(創世記1・4)
「ついで神は『大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。』と仰せられた。」(創世記1・6)
「神は『天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。』と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。」(創世記1・9-10)(*)
だから、陰陽の考え方はけっして異教的ではない!!!
イスラエルと異邦人の関係は、陽と陰である。
男と女のような関係である。
創世記において、神ははじめに「男」を創造され、次に「女」を創造された。
はじめに「男」にスポットライトを当て、次に「女」にスポットライトを当てる。
それと同じように、神は、アブラハムからキリストまでイスラエルに2000年間スポットライトを当てられた。
その後、現在まで2000年間異邦人にスポットライトを当てられた。
置換神学は、「このままの状態が永遠に続き、イスラエルは回復しない」というが、はたしてそうだろうか。
神が「男」と「女」にそれぞれスポットライトを当てられたのは、結婚を強調するためであったように、イスラエルと異邦人にそれぞれスポットライトを当てたのは、いずれ両方を合体させ、同時にスポットライトを当てるためであると考える。
イスラエルがこのまま捨てられたままに置かれるならば、神は、「男」を紹介し、「女」を紹介したままで終わるということになるのである。
「男」と「女」の存在は、結婚を前提としているのだ。それと同じように、イスラエルの時代と異邦人の時代の関係も人類が一つになることを前提としている。
イスラエルが捨てられて、光が当らなくなることによって、異邦人に光が当るようになった。ここ2000年の間、神の言葉を担ったのは、異邦人であった。異邦人に光が当るために、イスラエルは退けられなければならなかったのだ。そのことをパウロははっきりと述べている。
「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。…」(ローマ11・11)
「彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となる…」(ローマ11・12)
異邦人に光が当る時代のために、イスラエルは失敗させられた。
(「失敗させられた」と言ったからといって、神が失敗を強制したということではない。神は人間の堕落した心に歯止めをかけず、キリストを拒否するという自然の性質を放置することによって、イスラエルが失敗するのを許したのである。)
今、ユダヤ人がクリスチャンにならないのは、異邦人がまずクリスチャンになるためである。異邦人がクリスチャンになれば、今度は、ユダヤ人も異邦人もクリスチャンになる時代が来る。
それで世界は一つの信仰になる。
「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。」(ローマ11・25-26)
異邦人が完成すれば、ユダヤ人は神のもとに戻る。
結婚は、世界の最終的な目的であるところの、「神と被造世界の和解・調和」を象徴する。
イスラエルの回復を拒否する置換神学は、神と被造世界の調和という最終目的の達成を拒否する神学であり、尻切れとんぼの思想である。
(2)
イエスが誕生されたときに、東方から博士がやってきた。3人とは書いていないが、贈り物が3種類(黄金、没薬、乳香)あったことから一般に3人いたと考えられている。
私は、この3人の博士を単なる「異邦人の象徴」としてではなく、「裏イスラエルの象徴」と考える。
イスラエル人は、バビロン捕囚以後パレスチナに帰還したのは一部だけで、あとは、どこかに消えてしまった。
私は、これを「陽」と「陰」の分離と考える。
創造において光と闇を分け、陸と海を分け、男と女を分けられたのと同じように、神はイスラエルを「表」と「裏」に分けられた。
それ以降、光が当りつづけたのは、イエスが誕生されたパレスチナであるが、片方、残りのイスラエルは闇の中に沈んだ。
一方に光が当れば、他方は陰になってはじめてバランスが取れる。
だから、陰は必要な存在であり、忘れられているわけではない。その存在を神は、3人の東方の博士を通じてほのめかされたのかもしれない。
飛鳥氏によれば、でんでん太鼓などについている三つ巴紋は、三位一体を表す。
3つの勾玉のようなものが、一つの円の中にある。
私は、これが陽と陰の合体をも象徴していると考える。
陽は1である。陰は3。
陽は「一」。陰は「多」。
旧約聖書は「一人の神」が強調され、新約聖書では「3人格」が強調された。両方合わせて「三位一体」。「一と多」の調和。陰と陽の合体。
飛鳥氏によれば、日本には表の天皇が一人。裏の天皇が3人いるという。まさに、日本の伝統は、聖書の陰陽合一思想に合致する。
3博士の登場は、パレスチナのユダヤ人だけがユダヤ人ではないぞ、と示しているように思える。
よく彼らの出身地は、バビロニアと考えられているが、2年かかってパレスチナにやってきたことを考えると、もっと遠くから来たと思われる。2年もかかってやってこなければならないほど遠い東方の地とは?
日本じゃないだろうか。
もしそうなら、日本が裏イスラエルである可能性が高まる。
(3)
一と多の調和から考えると、パレスチナのユダヤ人が「一」で、離散ユダヤ人が「多」で調和する。
だから、日本に残りの10部族が集まっていると考えなくてもよいと考えるかもしれない。
たしかに、離散ユダヤ人は世界各地に離散しており、最近、世界の様々な場所に「我々の先祖はユダヤ人だ」と述べる部族が現れだした。
メシアニック・ジューの牧師らによると、今シルクロード沿いにリバイバルが起こっているという。
しかし、神は、プラスに対するマイナスとして、一つのまとまった土地に集団を作られた可能性はある。
第2次世界大戦において、離散ユダヤ人と日本はホロコーストと原爆という史上類を見ない災害にみまわれた。
そして戦後、パレスチナにおいてイスラエルが復活し、同時に、日本も復活した。
イスラエルのエルサレムに掲げられている国旗に六芒星があり、日本の古都、京都の市旗にも六芒星がある。
この符号一致はなぜだろう?
はたして偶然なのだろうか。
(*)黙示録では、「陸」はイスラエルまたはクリスチャンを、「海」は異邦人またはノンクリスチャンを象徴する。
2005年5月25日
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