欧州連合とロックフェラー2


フォスディックとモネの戦略の予型は、1912年にテキサスの政治的大物E・M・ハウス「大佐」が書いた『行政官フィリップ・ドゥルー(Philip Dru: Administrator)』に記されている。

本の中において、ドゥルーは、関税を撤廃し、社会保障法を制定し、北米の地域政府を設立し、国際協力体制を築き上げた。アメリカ・メキシコ関係に関して、次のように述べた。

「歳入を目的とする統一関税を除き、すべての関税を廃止すべきだ。統一関税は、世界の諸民族が同意してきた税金であり、けっして自由貿易を妨害するものではない。 もっとも愛国心に富み、賢明な人々の指導と助言のもとで準備された憲法を持つことはさらなる目的である。この憲法は、徹底して今日的でありながら、人々の習慣や慣習と調和したものであるはずだ。」

E・M・ハウスは1913年にウィルソン大統領の首席顧問になり、1919年にベルサイユへのアメリカ代表団『The Inquiry』のリーダーとなった。

The Inquiryは、1921年「外交問題評議会(Council on Foreign Relations)」となった。

E・M・ハウスの政治経済的戦略を発展させたのは、ジョン・フォスタ・ダレスである。ニューヨークの大金持ちの法律家であったダレスは、レイモンド・フォスディックの数年後に同じプリンストン大学を卒業した。両者とも、ウッドロー・ウィルソンが学長だった時にプリンストンで学んだ。

ダレスの叔父はウィルソン政権で、ウィリアム・ジェニングズ・ブライアンの後釜として国務長官になった。ブライアンは、ウィルソンがアメリカをドイツに参戦させる腹づもりであることを知り、抗議のために辞任した(1915年)。

ダレスは、ハウスが率いるベルサイユ平和会議(1919年)の代表団の一員となり、後にアイゼンハワー政権で国務長官になった。彼の兄弟アレン・ダレスは、アイゼンハワー大統領のもとでCIA長官を務め、ピッグズ湾事件の失敗でケネディによって解任された。ケネディ暗殺後、ウォーレン調査委員会の委員長を最後に政治の舞台から降りた。

ジョン・ダレスは、1930年代に、国際連盟によって設立された諸法人が無関税の恩恵を享受できる国際自由貿易地域を設置すべきだと説いた。これらの法人は国際連盟にその特権のための税を払う。この考えは、米外交関係の有力者たちと多国籍企業の経営者の間に広まった。

[ハリー・エマソン・フォスディックが長老教会から異端として訴えられた際に、ダレスは彼の法律顧問になった。フォスディックは、ニューヨーク市長老教会の説教者の座を降りることによって問題を収めた。これは彼にとって打撃とはならなかった。なぜならば、彼は一貫してバプテストであったということと、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアが彼を自分のバプテスト教会の牧師として迎えたからである。ジュニアがロックフェラー財団を引き継いでからずっとハリーは財団の理事だった。]

フォスディック、モネ、ダレス、そして、彼らの背後にいるロックフェラー。

彼らが周到な計画のもとに実行してきた世界政府設立への道は、2005年5月29日フランスによって、2005年6月1日オランダによって欧州憲法批准が拒否されたことによって、最後の最後において頓挫した。

見よ。バベルの塔以来、サタンの策略「世界統一」は結局成功しない。

人間が神抜きでまとまろうとしても、神は人間の言葉を乱して散らされるのだ!

真の統一とは、「聖霊による世界統一」である。それはペンテコステの日に始まり、福音の進展にしたがって拡大している。

(参考・EUthanasia by Gary North; http://lewrockwell.com)

 

 

2005年7月8日

 

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