学問は鵜呑みにできない
ディスペンセーショナリズムに汚染されると、聖書のいたるところが適用不能になる。だから、生活の様々な領域において指導や指針が不在になる。
しかし、クリスチャンだって複雑な現代世界で生活している以上、何らかの行動指針が必要だ。
クリスチャンはこれまでその指針をどこに求めたかというと、ノンクリスチャンの学問である。
もちろん、エデンの園以来、ノンクリスチャンの思考は悪魔に汚染されている。
神を除外した世界を作ることを望む反キリスト思想に基づいて作られている。
だから、クリスチャンがこの世界で生きる場合、聖書の指針がなければ、悪魔に教えを請う以外にはなかった。
心理に関してフロイトから学べという。フロイトは反キリストである。
心理に関しては反キリスト、教会生活はキリスト、2つの主人が存在して平気だった。
私がセオノミー(律法を含む聖書の教えを現代世界に適用しようとする立場)に反対する人々を信用できないのは、こういった生活を矛盾を感じずにできるからである。
本当のクリスチャンならば、絶対に悪魔に由来するものを受け入れられるはずはないのだ。
もちろん、ノンクリスチャンが作り出したものがすべて悪魔だといっているわけではない。
ノンクリスチャンにも聖霊の導きがある。聖霊の一般恩恵がある。
しかし、ノンクリスチャン(そしてクリスチャンも)の学問は、巧妙なサタンの誘導によって、あらぬ方向に導かれるから注意が必要だ。
人間には信用できないのだ。
だから、聖書という神の啓示が必要だ。啓示によって修正をしながら正しいものを探っていくことが大切だ。
ノンクリスチャンのものをことごとく拒絶することも間違いだし、ことごとく受け取るのも間違いだ。
聖書を最高権威として、調整しながら真理を求めることが必要だ。
2008年1月30日
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