四方八方から苦しめられているのは本物のクリスチャンの証拠である


クリスチャンの生活が順風満帆に進むはずがない。

どの信仰の偉人の話を読んでも、その人生は戦いの連続であった。

ぎりぎりのところまで追い詰められて、九死に一生を得るというのが、彼らに共通するパターンである。

御国についてど〜でもいい、という人なら、当てはまらないだろうが、少なくとも新生して本当のクリスチャンになったら、頭の中を神の国建設のビジョンが占めていることだろう。

こういった本当に天国に行けるクリスチャンの人生は、挫折と回復の連続だ。

なぜならば、神は

こ・の・よ・う・に・し・か・栄・光・を・現・さ・れ・な・い・か・ら

だ。


「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(2コリント4・11)

行き詰まることもなく、迫害されることもなく、見捨てられることもなく、倒されることもなければ、神の栄光は現れない。

神の栄光は「絶えず死に渡され」「イエスの死をこの身に帯びている」ときに現れる。

なぜならば、「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるため」だ。

我々の肉体は、神という「宝」を入れた「土の器」である。

土とは、見栄えのしないものだ。

誰も見向きもしない。

もしこの器がガラスとか、立派な上薬が塗ってある陶磁器であれば、見向きはされるかもしれないが、中の宝は色あせてしまう。

我々の内側にある神の栄光が現れるために、我々の外側は常に「四方八方から苦しめられ」、「途方にくれ」なければならない。

絶体絶命のピンチの瞬間にならなければ、我々に栄光が残ってしまう。

余裕をぶっこいている状態では、神の栄光は現れない。

我々の力が最小になり、もはや人間の力ではどうにもならない、という瞬間に、神が働かれ、そこで神の栄光がはっきりと現れる。

本物のクリスチャンとはこういった連続を味わう人種である。

次から次へと難問に襲われるなら、神に尊く用いられていることを感謝しよう。

「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8・18)

 

 

2005年3月7日

 

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