自分の人生を生かすも殺すも我々の態度次第である


私の場合、40を過ぎたときに、突然人生の終わりが見えた。

30代までは未来が限りなく続いているような気がしたが、40を境に、老後と死が見えはじめた。

もし自分に信仰がなければ、人生の空しさを感じたことだろう。

30以降は時間が経つのが異常に早かった。このスピードであっという間に70、80代を迎えるような気がする。

人の一生は本当に短いと感じる。

もし自分の一生が、ヒューマニズムが教えるように、「自分の幸福の追求のため」にあるとしたら、まったく空しいものである。

経験から分かるだろうが、人生で得られる利益そのものにはあまり意味がない。

たとえば、お金だ。お金を手に入れて、欲しいものを手にいれても、いずれ飽きてくる。それが存在する状況になれてきて、あたりまえの感覚になる。

安物のパソコンから高級なものに変えた当初はうれしいが、いずれ慣れてきて、あたりまえになる。

グルメも同じだろう。出世したらうまいものをたらふく食ってやろう、と考え、実際に金ができてうまいものを食ったからと言って、それに慣れてしまえば「なんだこんなもんか。」ということになる。

人生の中において価値があると言われているものそのものにはあまり意味はないのである。

人間は、神との関係で物事を捉えない限り、所有物や快楽そのものからは本当の満足を得られない。

神がいなければ、人間には空しさしか残らない。


空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。
風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。
すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。 (伝道者の書1・2-8)

人間が生まれてきたのは、仕事をするためである。

その仕事とは、それぞれに神が与えた役割である。

ゴルフプレーヤーとして生まれた人は、ゴルフを教えたり、ゴルフの試合に出て人々を楽しませることによって、自分の使命を果たす。

人生は、舞台に似ている。

人は、光が当たる舞台に役者が登場するように、この世に生まれ落ちる。舞台で自分の役割を果たすように自分の務めを果たす。役目が終わった役者が袖に下がるのと同じように、務めを果たした人は死ぬ。

神は永遠の昔に、人間各自に役割を与え、時が来ると、この人生の舞台に登場させ、あらかじめお与えになった役割を演じさせられる。

その役割を果たすことができるように、様々な人と出会わせ、助ける人やお金などを用意される。

人間は、自分がどう思おうと神が選ばれた役者であり、御心以外のことを行うことはできない。

人間の視点から見れば、未来には限りない可能性が広がっているように見えるが、神の視点から見れば、すべてが決定されている。

明日行われるW杯の試合の結果もすべて決定されている。一分一秒のすべての選手の動きもすでに決定しており、どのチームが優勝するかもすでに決定している。

神は絶対者であるから、影響を受けることは絶対にない。不意に起こることはないし、それゆえ、驚いくことも、ショックを受けることもない。

すべてのことは神の能動的な決断によって起こる。

だから、神と無関係に起こることはまったくなく、この世界に存在するものはことごとく神との関係において価値をもっている。

物事に固有の価値というものはなく、すべて神との関係において価値づけられる。

それゆえ、我々人間の側から見て有益な生き方とは、神の側に立つということである。

神のために働き、神の利益、神の願いのとおりに生きることによって、我々の所有物、家族、命、生活、職業すべてが究極的な価値を持つことになる。

その逆に神と無関係に活動することによって、その活動のすべてが無益と化す。

究極的な意味において、自分が稼いだり得たものはことごとく灰燼と化す。

我々が楽しもうとする「ものそのもの」には、我々を満足させるものは一つもない。ものそれ自体は空しいものである。

しかし、神のため、御国のために使用するときに、そのものには神からの評価が加わるので、永遠の価値を持ってくる。

神のために生きない人生は自分にとって無益である。

神ご自身にとって無益なものはこの宇宙に一つも存在しない。

たとえヒトラーであっても、神の計画の中において重要な意味がある。神は彼の人生をご自身の計画の成就のために用いられた。

しかし、ヒトラー自身にとって彼の人生はまったくの無益である。無数の人々を殺し、世界を悲惨に陥れた人生に対する裁きは確実に下るから、彼自身にとって自分の人生とは無益であるだけではなく、ひどい不利益である。

神にとってはすべてが利益である。

しかし、人間にとっては、利益である場合もあれば、不利益である場合もある。

自分の人生を生かすも殺すも、有益にするのも無益にするのも、我々の態度一つである。

しかし、神の世界では、その態度すら神の決定によるのである。

 

 

2006年6月17日

 

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