洗脳はかくも深く現代人に浸透している


(1)
仕事が非常に多くてなかなか本来の働きができない。

『テレビは見てはならない』(苫米地英人)という本がある。

興味深いので一読をお勧めする。

この著者は、私の30年来の友人の同級生で、非常に頭のよい人である。

我々は主にテレビの洗脳の犠牲者である。

その一例は、進化論なる珍妙なものを信じている。

よくよく考えれば偶然がいくら積み重っても生物が誕生することなどありえないことが分かる。

一つの酵素を形成するのに必要なたんぱく質1個だけでも確率的に可能性はゼロだ。

たんぱく質は、最低でも100個のアミノ酸から成り立つが、そのアミノ酸には20種類がある。

1個のアミノ酸に20通り、2個が並ぶ場合、20の2乗とおり、3個が並ぶ場合、20の3乗とおり並びかたがある。

100個の場合、20の100乗とおりだ。

これは、約10の130乗。つまり、もっとも単純なたんぱく質1個が偶然に誕生する確率は10の130乗分の1。

確率に詳しい友人によると30万分の1の確率以上は実質ゼロだという。

これは進化に必要な酵素1個を偶然に獲得する確率がゼロであることを示している。

進化論は妄想である。

豚が自力で空を飛ぶよりも可能性は低い。

この妄想をもっともらしく見せるために、人々は、「とてつもなく長い歴史」をつくりだした。

地球の歴史は45億年だと。

これはトリックである。45億年あっても10の130乗の確率のものを成立させることは不可能だ。

しかも、進化論者は、矛盾したことを平気で唱えることができる。

彼らは神の存在を否定するから、宇宙を閉じられた系、孤立系と見る。

孤立系では、エントロピーは一定かもしくは増大する一方だという法則がある。

つまり、乱雑さは一定かもしくは増大する一方だ。

気体分子を孤立系の空間の中に一列に並べておくとする。

時間が経過すればするほど気体分子は乱雑さを増して、ついに均一に分散する。

温度が高い部分はまわりの温度と平衡化する。

つまり、宇宙という孤立系の世界において進化などという複雑秩序化はおきない。

外部から神の意思が働けば別だ。つまり、創造の手が伸びれば組織化は起きる。

しかし、孤立系であり、外部からの働きかけがまったくないという前提を立てているのだから、そんなことは絶対におきない。

つまり、進化論を信じたいなら神存在を信じなければならないということになる。

理屈的に見ても、進化論は破産している。

こういうばかげた似非科学がTVの中で学者が言うものだから、人々はすっかり洗脳されてしまった。

私は高校生のときに生物の先生が授業で、進化論が正しいとは限らないと教えてくれた。

当時進化論を信じていたので、煮え切らない思いを抱いたが、先生は誠実だった。

今の医学は進化論を前提としているとある医者が言っていた。

もしそうなら、とんでもないことだ。誤謬に根ざした学問の体系はその誤謬とともに滅びる。

前提を変えて新たに医学を作り直す必要がある。

医学だけではない。ほとんどすべての学問がこの似非科学に土台を置いている。

世界中が騙されたというわけだ。

TVしか見ないと騙しから解放されない。

一日も早くまともな世界になるには嘘を捨てることだ。

(2)
この苫米地氏の本の中で一点だけ気になるところがあった。

それはオーラの泉などのスピリチュアリズムが「人間には来世があるといったデタラメ」を撒き散らしたと述べる点である。

来世の存在はデタラメではない。

なぜか?

科学では、来世の不在を証明できないからだ。

「科学では来世の存在は証明できない」ということは、「不在も証明できない」ということなのだ。

まずデータを集められない。

「死後の世界に行ってきました」という人が本当のことを話しているかどうかわからない。

科学的手法では、来世の世界は対象外なのだ。

だから、それについては「デタラメ」との断定はできない。

この来世否定も、一つの洗脳の結果であり、本当に解放されている人は「来世についてはあるかないか科学では検証できません」と言う。

ヒューマニズムの基本の一つは科学的理念であるが、それは、イギリス経験論の認識論批判において決定的な限界を示されている。

つまり人間の認識能力を徹底して厳密に追及するとほとんど何も分からないということが示された。

コップを持った手を離すと次の瞬間に下に落ちるかどうか経験だけに基づく科学は示すことができない。

下に落ちるということは、過去の経験からの類推に過ぎない。

実際に次の瞬間に引力の法則が作用すると<100%>断定することはできない。

100億回同じ結果が出たから、次に同じことが起きるとするのはいつでも同一の法則が作用するという「信仰」に基づいている。

この宇宙においてはどこにおいてもいつでも同一の法則が必ず適用されるとするのは信仰に過ぎない。

100億光年離れた星の地下10kmのところで同じ実験環境において同一の結果が得られるかどうかどうして分かるのか。

人間は、有限なので、有限な知識しか得られない。

それじゃあ科学はできないということになるので、今の科学は、実証半分・信仰半分に基づいている。

科学とは信仰の一種である。

この限界を認めた上でカントは、世界観を作った。

つまり「科学が及ばない領域については人間が自分のために作り出した信仰によって判断しよう」という世界観だ。

死後の世界については科学は及ばないので、我々が勝手に解釈しようと。

だから「死後の世界があるというのはデタラメ」と断定することはできない。

それも一つの宗教的信仰であり、実証された真理ではない。

苫米地氏をも騙すほどに洗脳はかくも深く浸透している。

 

 

20010年1月30日

 

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