広島原爆記念集会への国連事務総長の出席は歴史的茶番だ1


広島原爆記念集会に国連事務総長が出席。

これこそ、イルミナティの悪魔性の象徴的事件。

自分で落とした原爆を利用して、世界平和を訴え、世界統一政府の必要性を説く。

ユースタス・マリンズのTHE SECRET HISTORY OF THE ATOMIC BOMB
WHY HIROSHIMA WAS DESTROYEDはきわめて重要な文章である。
http://www.whale.to/b/mullins8.html

彼のエッセイをまとめつつ以下を述べる。

米原爆開発計画『マンハッタンプロジェクト』の名前は、その黒幕であるバーナード・バルーク及びその計画の中心人物がマンハッタンに住んでいたことに由来する。

バルークは、ユダヤ系実業家で、巨万の富を持ち、大統領を影で動かす人物であった。彼は、レズリー・R・グローヴズをプロジェクトのリーダーに選出した。

ロスアラモス研究所の科学担当リーダー、J・ロバート・オッペンハイマーを選んだのもバルークだ。『Oppenheimer; the Years Of Risk, by James Kunetka, Prentice Hall, NY, 1982』において、著者Kunetkaは106ページでこう述べた。「バルークは、主席科学諮問官として特別にオッペンハイマーをすえることに関心を示した。」

日本への原爆投下の決断を行ったのは、トルーマンであるが、彼にそれをアドバイスしたのは、国防研究委員会(The National Defense Research Committee)であった。この委員会のメンバーには、ニューヨーク連邦準備銀行総裁ジョージ・L・ハリソンとハーバード大学総長ジェームズ・B・コナントがいた。

コナントは、第一次世界大戦の際に、毒ガスの開発に携わった。1942年に、ウィンストン・チャーチルからの委任を受けて、対ドイツ用炭素菌爆弾を開発。ドイツが早期に降伏したため、実戦使用する機会に恵まれなかった。しかし、コナントは、トルーマンの委員会において、日本への原爆投下を進言した。

他の委員として、カール・コンプトン博士と、国務長官ジェームズ・F・バーンズがいた。バーンズは、ワシントンにおけるバルークの走狗と言われていた男であり、バルークは、バーンズを通じてトルーマンを操作していた。

すなわち、対日原爆投下を実質的に決定したのは、バルークであった。

バルークが、原爆投下を決断した主な目的は人体実験のためであった。

ウィリアム・マンチェスターは、終戦直前におけるダグラス・マッカーサーの忠告についてこう述べている(American Caesar, Little Brown, 1978, p.437)。


日本にはもう一つの動きがあった。マッカーサーは、それに気づいた数少ない人の一人であった。彼は、ペンタゴンと国務省に対して和平への動きを見逃すなと警告していた。彼は、その動きは、軍からではなく、東京から来るだろうと予測した。その予測は正しかった。日本の首都において和平を目指す人々の連帯が生まれていた。その中心にいたのは天皇裕仁自身であった。天皇は、1945年春に、国難を鎮める唯一の方法は、和平交渉以外にはないと心に決めていた。5月初頭から、日本の外交官6人からなる協議会が、連合国との和解を求める方法を模索しはじめた。代表者たちが、連合国軍のトップに対して「我々の抵抗は終わった」と伝えた。

ガル・アルペロウッツはThe Decision To Use The Atomic Bomb, by Gar Alperowitz, Knopf, NY, 1995の359ページにおいて、カーター・W・クラーク准将の1959年におけるインタビューの言葉を引用している。

我々は、ますます多くの商船を沈め、日本人をますますひどい飢餓に陥れていた。このことだけでも、彼らに卑屈な屈服を強いることができた。我々はそれ[訳注:原爆投下]を行う必要がなかった。我々は、それを行う必要がないということを知っていた。それでも、我々は日本人を2発の原爆の実験のために利用した。

 

 

2010年8月8日

 

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