嫌煙権運動の悪魔性


嫌煙権運動と地球温暖化運動、反捕鯨運動には共通するあるものを感じる。

それはサタンである。

私は、これらの「道徳的運動」に「偽メシア」を感じてしまう。

背後に、キリスト教とは別の「倫理的な体系」を作ろうとする野心を感じる。

実際、地球温暖化などを推し進めているゴア議員は、ロスチャイルド系のイルミナティである。

世界を反キリスト化する運動の一つに、嫌煙権運動がある。

ファンダメンタリズムには、「クリスチャンはタバコを吸わない」という不文律があるが、もともとそうではなかった。

リベラル神学と戦い、ウェストミンスター神学校を作ったファンダメンタリズムの中心人物G・メイチェンは、強い酒や適度の喫煙を罪悪と見ていなかった。


メイチェンは、洗練かつ謙虚な学者であり、強い酒や適度の喫煙を罪悪視しなかった。また、リバイバル集会に対して極度の不快感を抱いていた。
(Roger E. Olson, The Westminster Handbook to Evangelical Theology, Westminster John Knox Press, 2004)

実際、ウェストミンスター神学校には、喫煙所がある。

正統派よりも、異端ほど、タブーが多い。ものみの塔では、輸血が禁止されている。酒やたばこのみならず、コーヒーを禁止する教えもある。

私の友人のアメリカ人ディスペンセーショナリストは、「政治は穢れた領域である。だから、近寄るべきではない。」と言った。

これらの間違った教えの中心にあるのは、聖さ、聖別を、「ものそのもの」からの分離と考える考え方にある。

これは、聖書の間違った解釈である。

キリストは、世界を創造されただけではなく、十字架において世界全体を聖別された。

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 (コロサイ1・16、20)

十字架後、世界の中において、「ものそのもの」において穢れたものは一つもない。すべては、聖なのである。

旧約聖書の時代のように、うろこのある魚は聖く、そうではない魚は穢れているという区別はない。「安息日」は聖く、それ以外の日は穢れているというような区別もない。

新約時代における聖俗の区別の基準は、「動機」である。

「神のためにしているかどうか?」

聖書そのものであっても、利己的な使い方をすれば、穢れる。

・・・すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。 (ローマ14・20)
きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。 (テトス1・15)
神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。
神のことばと祈りとによって、聖められるからです。(1テモテ4・4-5)

神の栄光のために食するならば、あらゆる食べ物は聖い。しかし、それによって、人々をつまづかせ、信仰から離れさせるならば、穢れる。神の被造物はみな良い物であるが、感謝しないで受けるときに穢れる。

新約時代におけるクリスチャンの自由の基準とは、「ものそのもの」にではなく、「動機」にある。神中心ではないものはことごとく穢れている。

だから、今のファンダメンタリズムの「酒・タバコ禁止」は、クリスチャンの自由を阻害しようとする「異なる霊」「異端の霊」からきている。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。(1テモテ4・1-3)

結婚を禁止したり、食物を断つことは、「惑わす霊と悪霊の教え」によるのだ。それを信じることは、「信仰から離れる」ことであり、「うそつき」と「偽善」である。

今、教会で、まことしやかに唱えられている「嫌煙」や「禁酒」の出所は信仰ではなく、「不信仰」であり、悪霊の仕業である。

もちろん、健康上の理由による禁酒や嫌煙はその限りではない。

節制を失う誘惑を感じる人々、たとえば、アル中の人々に酒を勧めることは、かえって罪にいざなうことになる。また、酒を酔うために用いることも禁止されている。

しかし、こういうのは例外であって、この世界に存在する食用のものは、すべて神が何らかの目的で我々に与えられた「良い物」なのだ。

「良い物」を罪ということは、神のたてた法秩序に対する違反である。

最近の嫌煙権運動の出所は、「偽善の宗教」にあり、悪霊にある。

 

 

2008年12月25日

 

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