近視眼を捨てて、物事を長期的に考えよう
プロスポーツを見ていていつも、スポーツ本来の魅力で勝負しないと、そのスポーツの人気は下がる傾向が強いと思う。
たとえば、相撲は一時期、貴乃花や若乃花のゴシップで話題を集めていたが、あの醜聞に嫌気がさして相撲から離れた人々が多かった。
K−1も、図体だけがでかいが、キワモノの選手を集めて、興行的な成功を狙った時期があったが、すぐに飽きられて、本物の試合を見たい人々からブーイングが巻き起こった。
私は、現在の野球人気の低迷は、あの新興宗教化した私設応援団とそれに乗る観客の異様な応援にあると思う。
イチローがアメリカに行って最初に「野球をよく知っている人の前でプレーできることを幸いに思う」という主旨の話しをしたが、これは遠まわしに「日本の観客は野球を知らない」ということを言っているのである。
アメリカの大リーグの試合で、観客が静かにプレーに集中して見ているのを見ると、日本の選手がアメリカに行きたがるのもよくわかるような気がする。
もちろん、世界最高レベルの戦いの中に身を置きたいという気持ちがあるのだろうが、しかし、今の日本の野球では、選手が自分の腕を磨き、それを披瀝して正当な評価を得るということができなくなっており、それが、選手の側からの人気低迷の一因になっていると思えて仕方がないのである。
日本の応援風景を見ると、応援者は、ひいきのチームを応援している自分に酔っているだけで本当に野球を愛して、それを育てていこうという気持ちがないのではないか、と思えて仕方がない。
ビートルズがコンサートを止めた大きな原因は、誰も自分たちの音楽を聞いてくれないということだった。観客席からはキャーキャーという悲鳴しか聞こえず、そのような異常な反応にメンバーが疲れきったのだ。
どの分野にも言えることだが、本当の人気を維持するためには、熱狂的ファンという名の「自己崇拝者」に目を奪われないことである。
そのような連中に気を取られると、本当にそのスポーツなり音楽なりを愛している人々を失い、長期的な地盤沈下に見まわれる。
本物を追求すること。
騒ぐことしか頭にない連中を無視すること。
ここ30年ほどの間に教会にはびこった教会成長学の影響で、教会は注意を払っても無意味な人々に注意を払うようになった。
「数」を追い、礼拝出席者の増加を狙ううちに、本物の信徒を次々と失った。
本当に教会を愛している人々を追い出してきた。
本当に利益になる人々の言葉に鈍感になり、無益な人々の言葉に耳を傾けてきた。
近視眼を捨てて、物事を長期的に考えるということが今必要なのではないだろうか。
2005年5月21日
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