オーバン・アヴェニュー神学


残念なことだが、かつて再建主義を奉じていた人々が異端に逸れてしまった。

一つは、フルプレテリズム。フルプレテリズムは、紀元70年に天地が崩壊し、律法が廃止されたので、我々は今律法によって裁かれないと教える。

だから、キリスト抜きの救いの道を提供しているので異端である。

もう一つは、オーバン・アヴェニュー神学。私がかつていた教会がこの立場になってしまった。

オーバン・アヴェニュー神学は、二契約説を否定する。

二契約説とは、伝統的なカルヴァン主義の契約観であり、次のようなものだ。


アダムは自分の業によって永遠の命を達成しなければならなかった。

一定期間神のテストをクリアすれば、命の木から自由に取って食べ、永遠に生きることができたはずだった。

しかし、彼は失敗し、永遠の呪いを受けることになった。

そこで、神は第2のアダムであるキリストを我々に遣わし、我々の罪責を完全に取り除き、我々の代わりに律法を完全に守らせることによって、我々の代わりに永遠の命を獲得させた。

信仰によって神との間にキリスト契約を結ぶことによって、我々はキリストと一体となり、彼の功徳を自分のものにすることができる。

我々は、今や恵みの契約の中におり、その中にいる限りにおいて、永遠の命と祝福を相続することができる。

しかし、オーバン・アヴェニュー神学は、アダムは、業の契約を成就する責任がなかった、と教える。

アダムは、今の我々のように恵みの中におり、その中に留まりさえすれば、永遠の命を達成できた、と。

つまり、最初からアダムは恵みの契約の中にいたというのだ。だからこの立場は「一契約説」という。

これでは、キリストの贖いの意味がなくなる。

キリストが受肉され人間の姿になられたのは、我々人間が失敗したことを「人間として」成就するためである。

業の契約を否定するならば、業の契約を成就する必要もなくなるわけで、そうすれば、キリストの受肉にも意味がなくなってしまう。

つまり、この立場は、キリストの受肉と代償的死、代替的契約成就というキリスト教の基本中の基本を否定する教えなのだ。

キリストを唯一の救い主としない教え、これこそ異端でなくて何を異端とするのだろうか。

私は、皆さんに新たに生まれたこの異端に注意することをお勧めする。

 

 

2008年10月27日

 

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