信仰には一点の抜け穴もあってはならない


私の知人が通う教会では、教会員のほとんどが精神的な病を負っている。

今の教会の悲観的終末論では、クリスチャンがうつになっても当然である。

先日行ったクリスチャン家庭の集会で、ディスペンセーショナリストの夫妻は、私にこう言った。

「あなたはそんなに知的なのに、どうしてこれから世の中が改善すると考えるのですか?」

「聖書にそう書いてあるからです。」

「いいえ。それは違います。聖書では、この世界はサタンの支配下にあるとあります。」

「聖書はそう言っていません。世は悪いものの支配下にあるという箇所の世とは、ノンクリスチャンのことです。クリスチャンは、キリストによってサタンの支配下から買い戻されたのです。」

「でも、全世界はサタンのものですよね。」

「いいえ、天地にあるものは主のものであるとあります。」

「しかし、黙示録や手紙では、これから大きな患難があるとあります。」

「いいえ、大患難は、紀元70年に成就しました。黙示録や手紙は紀元70年の事件を預言しているのであって、私たちの未来に言及しているのではありません。私たちは、今キリストが支配する世界に生きており、もはや聖書の大患難は起こりません。」

聖書の読み方がおかしいのである。

彼らは、「紀元1世紀の読者に向けて語られた預言」を自分に語られたものと解釈する。

黙示録の「獣」を未来において、EUに登場する反キリストであると考えている。

こういった解釈は、「聖書の私的解釈」であり、聖書において厳に禁止されている。

黙示録において獣について、「読者よ悟れ!」と言われているが、この「読者」は我々のことではない。

黙示録は手紙なのである。手紙の直接の読者に向かってヨハネは語ったのである。

だから、獣は、読者である紀元1世紀の小アジアに住むクリスチャンが悟ることのできない者ではない。

この夫妻に対して私は、いくつかの箇所を示した。

(1)
「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」(マタイ16・28)

ここで、明らかにイエスの来臨が、同時代の人々の生存中に起こると言われている。

どうしてイエスの来臨を、21世紀に住む我々の未来に起こると解釈できるだろうか。それとも、この時代に生きていた弟子たちの中でまだ生きている人間がいるのだろうか?そんなはずはない。

(2)
「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(マタイ24・34)

マタイ24章の終末の前兆は、「この時代」のうちに起こると明言されている。

ディスペンセーショナリストが終末の前兆として挙げるマタイ24章の事件のすべては、「この時代」つまり、イエスと同時代のうちに起きたのだ。

だから、我々は聖書の終末預言を未来に起きると考えることは「絶対に」できない。

ディスペンセーショナリズムの聖書解釈は、文脈を無視した「逸脱した」解釈であり、それは、我々を誤謬へと導く。

我々は、このような不誠実な聖書解釈を捨てなければならない。

これは、欺きの霊によって教会に吹き込まれた惑わしである。

「我々の未来に大患難が起き、クリスチャンのなしたすべての文化的営為は反キリストによって破壊される」ということを信じるならば、うつになっても不思議ではない。

教会は、クリスチャン自身がこの世界の王であるということを宣言していない。

クリスチャンには、サタンに対して勝利する法的な根拠があることを説いていない。

しかし、我々の未来は、世界を弟子化し、世界を聖書に基づいて変えることである。世界はこのようになると運命づけられている。

たとえここで私がこのことを述べなくても、誰かが現れて同じことを言うだろう。

神の計画は、この世界における悪魔に対する教会の勝利なのだ。

しかし、今の教会は終末論において、このことを教えていない。

この終末論における誤謬は不可避的に個人的な信仰に影響する。

悲観的終末論は、必ず我々の個人的な生活においても我々を悲観的にする。

「サタンが世界を支配している。それを覆すことはできない」というような信仰でどうやって個人的な生活を正常にできるのか。

クリスチャンは、霊的な世界に通じている。

聖霊を通じ、聖書を通じて、霊的な世界と触れているから、なおさら、霊的な攻撃を受けやすい。

正しい教えなしに、霊的な世界に触れることは、非常に危険である。

今日、教会の中に精神的な問題をかかえている人が増えているのは、霊的な世界に触れ、神とサタンの存在について知っている「霊的に敏感な」人間が、霊的な防衛策である「信仰」を持たないからである。

エペソ6章において、信仰は「大きな盾」でありサタンの「火矢」を防ぐためであるという。

クリスチャンは、今日ディスペンセーショナリズムの誤謬によって、大盾を奪われている。

だから、「火矢」がばんばん心の中に刺さっているのだ。

これでどうして精神的な病に陥らないですむだろうか。

クリスチャンよ、もし精神的に健康になりたいならば、偽教師に気をつけたまえ。

6日創造説を否定し、部分的であれ、進化論を受け入れる偽教師を追い出せ。

聖書を徹底して信じることを勧めない牧師を追い出せ。

もしくは、そこから逃げよ。

一点の穴が、巨大なダムを崩壊させるように、信仰に一点の抜け穴があれば、それは、あなたの人格を徹底して破壊するだろう。

信仰は完全でなければ、自分を守ることは絶対にできないのだ。

聖書によって完全武装せよ。

疑いが生じたら、徹底的に信じられるように、自分の心に繰り返して言い聞かせよ。

平安が来るまで祈り込め。

私は、一点の不信仰がいかに自分の精神を破壊するか体験した。

今全世界の教会が廃墟と化し、キリスト教が異端に乗っ取られている原因は、聖書の十全霊感と、無誤無謬性を否定したからだ。

リベラル神学とディスペンセーショナリズムによって、信仰に穴をあけられたからだ。

教会は、疑いの炎によって焼き尽くされた。


結論:

クリスチャンは、霊的な世界を知っているだけに、それだけ霊的な負の影響を受けやすい。

今の教会は、人々を霊的な世界に導き入れておきながら、その世界において生きる術を教えていない。きわめて無責任である。

信仰に一点の欠陥があれば、それは、我々の精神を崩壊させるということを肝に銘じるべきだ。

 

 

2009年1月7日

 

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