神や聖書を前提としてもよいか?
<Q>
宗教有害論者です。世界各地で繰り広げられている「宗教による人権侵害」に憤りをおぼえています。参考のために閲覧させていただきました。
キリスト教再建運動の5条件の[前提主義]という個所を読んで驚いたのですが・・・
「神と聖書は人間の世界認識の前提」ということですが、それを前提とする根拠は何なのですか?
「神を証明したり、聖書を証明したりすることから認識を開始しません」とありますが、それはすなわち根拠がはっきりしないものを盲信せよ、ということではないのですか? 聖書がこの数千年の間に、戦勝国の歴史のごとく時の権力者によって都合よく書き換えられている可能性などは全く考慮しないのでしょうか?
無論、旧約聖書自身が選民主義の拠り所として神の名を騙り最初から捏造されたものである可能性も大きいわけです。
またキリストが実際は悪意を持った存在の御使いであり、あなたがたを騙しているという可能性を考えた事はないのでしょうか? イスラエルとパレスチナの血みどろの領土争いなど、その悪意が見事に結実した結果であるように見受けることもできるわけです。
現代社会はその根本原理である[科学]=第三者に検証可能な原理(ある条件が成立するときに特定の現象が起こるという事実)で成立しています。証明できない事象については[仮説]が唱えられ、あらゆる角度から検証が行われます。[仮説]は証明されるまでは仮説のままです。
[証明されていないモノを原理であり唯一の真実である]として布教を行うこと事態、私には残念ながら詐欺行為か犯罪にしか見えません。よく悪徳商法で虚偽の効能を謳って全く効果の無い商品を高額で売りつける手法がありますが、アレと宗教の手法が同じに見えるのです。
キリスト教に私の疑念を払拭することは出来るのでしょうか? それとも私は善悪二元論に基づいて悪魔にくみする人間としてあなたがたから排除項として扱われるのでしょうか?
神の存在=原理を語るなら、その根拠を明確にしていただきたいものです。
<A>
(1)
「宗教による人権侵害がある」ということは事実でしょう。
しかし、「宗教によらない人権侵害がある」ということも事実でしょうから、「人権侵害は宗教のせいだ」とはいえません。
その宗教の本来の目的がそのような侵害を行うことにあるならば、その宗教は批判されるべきでしょうが、その宗教の教祖や教典が「人権侵害をしてはならない」と教えているならば、その宗教自体に問題があるのではなく、「それを信じていると名乗っている人々の問題」なのです。
聖書は、「人権侵害をせよ」などと教えていません。
イエス・キリストは、むしろ、人間の罪の刑罰を身代わりにおって十字架につかれました。
(2)
何かの意見を主張する場合に、前提というのは、何でもいいのです。
「UFOは存在する」でも「ネス湖には恐竜がいる」でもいいのです。
しかし、論者は、その前提から出発して現実にある様々な事象を矛盾なく説明しなければなりません。
UFOが存在するならば、なぜ我々に正々堂々と現われないのか、とか、ネス湖に恐竜がいるならば、どうしてあのような巨体なのに、ほとんどの人が見たことがないのか、とか、矛盾点と思われるものを合理的に説明できなければなりません。
合理的に説明できなかった時点で、その前提は捨てなければならない、ということになります。
前提そのものの前提を問い掛けるならば、際限がありません。
たとえば、議論する人は、「人間の論理的思考の正当性」を当然の前提としています。もしこれまで疑わねばならないとしたら、何も考えることはできなくなります。
また、「我々が五感によって感じ取る世界について思考したことは、その世界『そのもの』について思考したことになる」というのも「前提」であって、科学者はそれを証明せずに論を進めています。
経験論は、この認識の出発点について疑義を唱えました。
「自分の目の中に入ってきた光が網膜において像を結んだ。その像について考えることは、その対象そのものについて考えたことになるのか」という疑問を経験論は唱えましたが、誰も答えられません。
今の科学は、「網膜に映った像について考えたことは、対象そのものについて考えたことにしよう」という約束事の上に成立しています。
前提を疑えばきりがありません。まず、前提を立てて、それに基づいて議論した場合に矛盾が生じたら、それを捨てればよいのです。
「正当性がない前提を立ててはならない」と誰も言うことはできません。
(3)
神の存在と聖書は、前提以外になれません。
なぜならば、神や聖書を検証する「人間理性」に正当性があるか誰も証明できないからです。
「人間が科学的方法によって認識する行為は絶対に正当である」という命題が事実であるならば別です。
しかし、経験科学は、それを証明できません。経験科学は、「経験したものだけに依拠する」という立場を取っているのですから、「絶対真理」などはありえないのです。
ドグマを作った時点で、経験科学は、経験科学であることを止める。
反証可能な状態に留まっていた仮説が実験によって「今」確かめられたとしても、しかし、それが一億年後に「数億回の試行の後に」再現できるかどうか誰も知りません。
「この法則は、同じ条件であれば、必ず普遍的に適用できる」というのは信仰でしかありません。
「神や聖書を前提とする」のが間違いで、「神や聖書をも疑う」というのが真理であるならば、では、「その疑っている人間の検証行為が正当であることをどうやって証明するのか?」という疑問をつきつけられます。
これは、すでに18世紀に問い掛けられ、解決がついていない認識論上の問題です。
しかも、「人間の主権者である神や、人間に対して主権者として立つ神が啓示した聖書」を試験管の中に入れて、それをテストするという行為そのものが、「従者であるべき人間に許される」のか、という重大な問題があります。
神の存在を否定し、聖書を検証するという行為そのものが、「人間は神や神の言葉を評価できる」という証明されていない前提に基づいていますし、「人間が神の言葉として選んだ言葉が本当に神の言葉であることをどうやって証明するのか?」という問題もあります。
17世紀から18世紀にかけてこのような人間の認識能力に対する疑いが出て以来、「人間理性を基準として世界を評価できる」というのは、証明済みの真理ではなく、単なる「約束事」でしかないと考えられており、科学者は、科学を、この「約束事」に基づいて行われる「暫定的真理探究の方法」として見ています。
もちろん、ここらへんの認識論の研究史を踏まえていない場合には、「人間の認識能力は絶対であり、それを不動の基準とできる、それゆえ、人間は神も、神の言葉も評価する資格がある」と考える科学者もいるでしょうが、はたしてそれを科学者と呼べるか非常に疑問です。
2004年3月17日
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