人をさばくのは主である


最近、毎日いっしょに祈っていた友人が突然怒り出した。

祈りの中で語ったことが自分に対するあてつけと考えたらしい。

しかし、祈りの中においてあてつけなどどうしてできるだろうか。

祈りとは、もっぱら神への言葉である。そこに聞いている人を意識したら祈りにならなくなるだけではなく、神への冒涜にもなる。

礼拝メッセージも同じである。

メッセージの中において人間を意識し、特定の人間へのあてつけやら攻撃などを含めることは、「預言への冒涜」になる。

なぜならば、礼拝メッセージは、まぎれもなく預言だからだ。

旧約聖書において預言者が、神からのメッセージをそのまま伝えなかった場合には処刑に値した。

礼拝メッセージが自分にぴったり来ることがよくあるのは、メッセンジャーが神の霊の導きによって語っているからにほかならない。

もし自分の勝手な考えを付け加えるならば、そのメッセンジャーは呪われる。

彼は偽預言者として裁かれる。

神を信じるメッセンジャーは、こんな恐ろしいことはしない。

本当に訓練を受けたメッセンジャーは、神の御心以外自分の運命を支配するものはないということを体験から徹底して学んでいるので、聴衆が何を考えているかについてまったく気にならない。

この意味において、礼拝メッセージは、落語や演劇などエンターテインメントとはまったく異なる。

エンターテインメントは、「受け」なければ意味がない。

しかし、預言や祈りや礼拝メッセージなど、神の御心を取り次ぐ人々の言葉は「受け」とまったく無縁である。

そのまま伝えることだ。自分の勝手な思想を追加してはならない。

もし追加したら裁かれる。

キリスト教界のある有力牧師が、私の活動を妨害するために、電話をかけて御言葉に関する仕事の相手先に入れ知恵をしたことがある。私はその相手先からじかに聞いた。

彼は、このような活動によって私の伝道活動が妨害されることがあると考えているので、本当は信仰がない人なのである。

伝道活動とは、人間の思惑はまったく関係がない。どんなに妨害しても、御心ならば伝わってしまう。

仮に私が正しいことを語り、御心を行っている場合には、その牧師は御心を妨害することをやっているわけだから、恐ろしい裁きにあうだろう。

彼がどんなにキリスト教界で大物だろうと、こんな小細工を神を恐れずに平気でできるということは、張子の虎だったということだ。

徹底して人間を恐れないという訓練を積んでいない人は、御国の働きにはふさわしくない。我々の運命を決定するのは、神だけである。


人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。
支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。 (箴言29・25−26)

 

 

2007年7月19日

 

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