多神教への回帰は危険である


最近、ブッシュ大統領の強引な手法や侵略戦争を見た日本の知識人の間に、多神教への再評価の動きが出ているが非常に危険である。

まずいくつか誤解しているので、その誤解を解かねばならない。

(1)ブッシュ大統領やアメリカが標榜するキリスト教とは聖書的キリスト教ではない。

聖書は侵略を肯定していない。ブッシュ大統領を後押ししているのは、キリスト教の原理ではなく、アメリカの市民宗教の神であるユニテリアンの神である。憲法のThe Great Architect とは、聖書の神ではなく、フリー・メイソンの神である。大覚醒時代以降、カルヴァン派が築き上げた社会契約が破壊され、それに代わって共同体に基礎を与えたのは、啓蒙主義の流れをくむ友愛組織である。
アメリカ社会の神は、三位一体神からユニテリアンの神に変化した。

(2)ユニテリアンの神は、一つの人格しか持たないが、聖書の神は三つの人格を持つ。

イスラム教の神やユニテリアンの神と、聖書的キリスト教の神の大きな違いは、前者が人格を一つしかもたないのに対して、後者は三つ持つということである。

三位一体の神において「統一」と「多様性」はどちらも究極である。だから、「キリスト教は一神教で、何でも異論をつぶして統一することを求める。だから侵略が起こるのだ」という論法は間違いである。

(3)
多神教は、「多」を究極に置く思想だから、混沌や無政府状態の合法化につながる。
多が究極であれば、一は非合法になる。いかなる統一や調和への運動も無価値と見なされることになる。
しかし、社会が成立するには、「一」は不可欠であるから、無理にでも統一を求めざるを得ない。そうすると、統一についての基準は多神教のうちには存在しないので、何が統一をもたらすかというと、「剥き出しの力」、つまり、暴力である。
つまり、多神教は最終的に専制的支配者を生み出す以外にはない。
人民主権つまり「多」の原理を求めたフランス革命やロシア革命は最終的に独裁に行き着いた。
多神教を国の基本原理に置くことは極めて危険である。

(4)
私の意見では、日本が多神教の国であるというのは誤解である。
日本神話の創造神である、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神は、三位一体神である。
日本の神社建築には、この三位一体思想が溢れている。
昔、天皇家の儀式を司っていた下鴨神社の宮司の出自である秦氏は、キリスト教徒と言われており、秦氏関連の神社や行事には三位一体のモチーフが随所に見られる。
天皇の即位のための儀式は、浴槽に入って水の中から出、その後、神と食事をともにするというもので、キリスト教のバプテスマと聖餐と酷似している。

 

 

2004年7月20日

 

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