蘇我氏の復活3
今回の佐宗氏の論文については非常に興味深いことが起こった。
実は、かなり前にユーチューブのジェイ・エピセンター氏に関するビデオをある友人に紹介したところ、その友人は、エピセンター氏にも興味を持ったが、その司会者である佐宗氏に興味を持った。
友人は、会話するたびに佐宗氏に興味があると語っていた。
なんと、この友人の名前は稲葉といい、あの論文の中で佐宗氏が、自分の先祖が、小田原の稲葉氏に仕える侍であったと述べていたのだ。
これを聞いた友人は「だから親しみを覚えたのか」と語った。
この友人、伊豆出身であり、以前から小田原城主であった稲葉氏に興味を持って調べていたので二重の驚きであった。
そして、佐宗氏が蘇我氏についてムーに寄稿したという情報は、私にとって驚きであった。なぜならば、私は蘇我氏について以前から何かが隠されていると直感していたからだ。
名前がいかにもクリスチャン的だ。それなのに、歴史では、仏教の陣営として描かれている。そして、同族である聖徳太子の一族を討ったとも。
おかしい。何かがねじまげられている。
その疑問を蘇我氏の末裔である佐宗氏が明らかにされた。
もう一つ、私にとって興味深いことは、日本にはあるいくつかの対立する集団があり、古代からその基本的な流れは続いているとの直感があった。
佐宗氏は、それが百済系の藤原氏と新羅・高句麗系の蘇我氏の対立であったと言われた。
私はこの論文を読んで、何か一筋の光を見た気がした。
しかしなぞも深まった。
平安京は、秦氏・蘇我氏側が作ったはずなのに、なぜ藤原氏が支配したのか。
それに伴い、秦氏・蘇我氏側が、難を逃れて京都から地方へ散ったのか。
北関東に秦氏が住み、そこから徳川家が出た(もともとの出身は名古屋ではないという)が、徳川家による日本統治は、都落ちした秦氏蘇我氏による巻き返しだったのか。
いろいろなぞがあって、識者のご指導を仰ぐことができればと考えている。
神は、佐宗氏を通じて、このように日本史を調べる機会を与えてくださった。感謝したい。
ただ、この論文が遺言のように佐宗氏が直後急逝されたことは残念である。
2009年9月21日
ツイート
ホーム