批判するなら教派政治よりも御言葉に直接当たりたまえ2



来年9月のCalvin 500の後援をしているWestminster神学校にしてもP&R PublishingにしてもRushdoonyを斥けていないのですから。

そうでしょうね。

ラッシュドゥーニーについて私が最初に知ったのは、改革派の渡辺公平先生の本『カルヴァンとカルヴィニストたち』でしたから。

ウェストミンスター神学校のジョン・フレームは、ラッシュドゥーニーの『聖書律法綱要』についてこのように批評しました。

聖書律法綱要
書評

ジョン・M・フレーム

[R. J. Rushdoony: The Institutes of Biblical Law. Nutley, N.J.: The Craig Press, 1973. vii, 890. $18.50.]

この記事は、ウェストミンスター神学ジャーナル(38:2 (Winter, 1976), 195-217.)に記載されたものである。

この書評の仕事を引き受けることになったのは、同僚が「ラッシュドゥーニーをもっと真剣に受け取らなければならなくなるだろう」と言ったからである。ラッシュドゥーニーは、改革系のグループにおいて、もっとも多くの本を書いている一人であり、彼の支持者は多く、ますます増えつつあり、彼の書物には、改革信仰を有力に説明し、学問的に弁証しているが、我々は彼のことをかなり無視してきた。彼の著書に論評を加える者はあまりなく、彼の名前に言及する者もそれほど多くなかった。

しかし、私はこのことを、一人の重要なクリスチャン思想家に対する未熟な拒絶であると考えるようになった。最近、ラッシュドゥーニーの同僚と会い、彼の著書、特に『聖書律法綱要』を読んで、「我々はラッシュドゥーニーについてもっと真剣に考えなければならない」と確信するようになった。

他の分野において、私は、多くの点でラッシュドゥーニーの議論に対して異論があるが、 彼の綱要を読んで「著作に対してどのような批判があろうとも、ラッシュドゥーニーは、現在生きているクリスチャン社会批評家としてもっとも重要な人物の一人である」との確信を持つに至った。

それゆえ、彼の実に重要な洞察から最高の利益を受けるために、彼の長所と短所を指摘しつつ、ラッシュドゥーニーを正しく評価することが我々にとってもっとも必要である。

ラッシュドゥーニーの作品を知るほとんどの人々は、賛成するにしても、反対するにしても、彼に対して激しい情熱を持っていることに気づいた。この書評は、このいずれのグループにとっても喜ばしいものではないだろう。

しかし、我々のグループにおいて、我々が必要なのは、あまり情熱的に唱導せず、もっと大きな共感を寄せながら批判的に分析することであると思う。

私の目標は、党派心の強い人々を喜ばせることではなく、これらの問題において自分には助けが必要であるということを喜んで認める人々を支援することである。

・・・
http://www.frame-poythress.org/frame_articles/1976Rushdoony.htm

けっして異端だとか、危険だとか見ていませんよね。

読めば分かるでしょう。

まともな神学校で、彼の著書を読んで異端だと結論するところはないでしょう。

 

 

2008年10月27日

 

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