契約的世界観の必要性
たしかに契約の定義は厳密にする必要があると思います。
ただ、神は人間を創造され、彼と業の契約を結ばれ、その契約の文脈に世界のすべての被造物を置かれたことは確かなのですから、世界を解釈する正当な枠組みであると思います。
「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」(創世記1・28)
もちろん、神と被造物の間の宗主関係は神の三位の間に適用できないかもしれませんが、しかし、聖書啓示は明らかに「父と子」「聖霊は遣わされる」という上下関係を表現しています。
私たちの社会は、ヒューマニズムによって世界を完全にバラバラなものの寄せ集めと考えるように導かれてきました。
この世界の個物と個物の間を結ぶ紐帯を否定されました。なぜならば、進化論によって創造が否定されたからです。つまり、ヒューマニズムは、「創造されたのではない世界の個物と個物の間にアプリオリな紐帯は存在しない」と教えてきました。
その結果、社会道徳が急速に崩壊しています。カント以降、紐帯は人間が自分の主観で作り上げてよいということになっていますから、独裁者が紐帯を作りだすと、虐殺も可能になる。
この相対主義の世界観に対して、キリスト教は明確なパラダイムによってはっきりと対抗してこなかった。
私は、学校や家庭において子供たちに、創世記1・28の、神は人間を創造し、彼に支配を委託された、という契約の枠組みを教えるべきであると考えます。
世界のあらゆるものは、神と人間の宗主契約の中に置かれるべきであると。
じゃあ、結婚も宗主契約なのか、というと違うと思います。
宗主契約の中に置かれているからといって、すべての契約がそのまま宗主契約であると考えることはできません。
契約の種類は多様でしょう。それは聖書から定義していく必要があります。
結婚契約は、神がアダムと結ばれた宗主契約を実行するためのものです。エバは助け手として与えられた。
違うと言っても、契約であることに変わりはない。
そこに「機能的主従」関係(本質的主従関係ではない)があり、「機能的上下関係」(本質的上下関係ではない)がある。
しかし、神ご自身が上下関係をお持ちであり、平等であるにもかかわらず服従しておられるということが、我々人間関係、夫婦関係のモデルなのだと思います。
人間は、すべての面において神を模範とすべきであると思います。
「神が聖であるからあなたがたも聖でありなさい」
私たちの社会の基本である「関係性」「多」「複雑」に関しても、神は模範であるはずです。
神を模範とすれば、上下関係や命令が「悪」であると考えるヒューマニズムのパラダイム(ウーマンリブのような)から、社会を守ることができると思います。
私は、契約的世界観というものは今の世界にとって必要であり、既存のカルヴァン派はそれに対して明確に対抗してこなかっただからrelevancyを失ってきたと考えます。
2008年10月26日
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