昨日ある兄弟から電話があり、牧師や信徒に説明するが、なかなかポスト・ミレは伝わらないとぼやいていた。
人々がひっかかるのが「今の時代が千年王国ですか?こんなひどい時代が?」という点だ。
このような疑問が起きる決定的な問題は、「聖書を聖書によって読まない」という間違った方法にある。
聖書に書いてあることを、我々の感覚や常識で解釈してはならない。
たとえば、聖書では、クリスチャンになった人はすべてが新しくなったと言われている。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (2コリント5・17)
この「すべて」を文字通りすべてと取るならば、我々がクリスチャンになったときに、もはや罪を犯すはずはない。
すべてが変わったのであれば、以前持っていた罪深い性質はすべて変えられて完全な聖人になっているはずだ。
しかし、実際は、罪人のままである。
この「すべて」は、我々の常識や感覚で解釈してはならない。聖書が他の箇所においてこの「すべて」をどのように示しているかを調べることなしにこの語句を正しく解釈することはできない。
では、この「すべて」とは何か。
すべてとは、我々はクリスチャンになったときに、「法的に完全になる」という意味である。
法的にとは、「我々は、実際には罪人だが、法的立場上完全とされた」ということだ。
我々は、キリストを信じるときに、キリストの贖いを受けて、法的に無罪となる。また、キリストの功徳も受けるから、法的に被造物の永遠的相続者になる。
しかし、実際には無罪でも、相続者にもなる資格はない。我々は、そんなにたいしたものではない。依然として罪人である。しかし、キリストの贖いと功徳は完全なので、我々の犯したすべての罪を覆って余りある。
だから、我々は、キリストにあって無罪と「みなされる」。
これは、あるアパートの物件に関して、所有権を獲得し、法的に所有者になったのにたとえることができる。
所定の金額を支払ってアパートの所有権は自分の手に移った。だから自分は法的にアパートの所有者である。しかし、実際には、なかなか出て行かない住民がいるので、所有者ではない。そのアパートをつぶしてそこにマンションを作りたいができない。
これと同じように、我々は、法的に無罪であり、永遠の被造物相続者になり、この世界の王になったが、実際的には無罪でも、相続者でも、王でもない。
これらの性質を実際化するには、時間がかかる。
これと同じように、世界は、紀元70年に千年王国になった。これは、法的になったということだ。実際にはそれ以前とほとんど変化がない。
しかし、時間とともに徐々に法的千年王国は、実際的千年王国に変わっていく。
世界は、黙示録の預言のとおりに、「諸国民がサタンに騙されなくなってきた」。
それ以前には、御言葉を持ち、光を与えられていたのはユダヤ人に限られていた。しかし、千年王国が始まってから、福音伝道を通じて、世界の諸民族が次第に御言葉の光に照らされるようになった。
ローマが変わり、ヨーロッパが変わり、そして、世界が変わっていった。
紀元70年の段階で、キリストは法的に王であったが、実際的には王ではなかった。しかし、ローマがキリストを正式に天の王として認めるようになり、ヨーロッパの諸民族が次第にキリストを王と認めるようになった。
今の時代、悪魔の巻き返しがあるので、逆戻りしてしまったが、これは一時的なことである。
千年王国は拡大する。そして、その拡大をとどめることのできる者は誰もいない。
キリストは、あらゆる領域において王となるだろう。実際の生活、政治、経済、芸術、あらゆる領域においてキリストは王になるだろう。
聖霊はこのために働いており、クリスチャンをリバイブさせ、次々と働き人を起こし、千年王国の拡大のために活動させられる。
現状を見て聖書を解釈してはならない。
自分の常識や感覚で判断してはならない。
聖書は、法的状態と実際的状態を区別している。
神がモーセの民に対して「カナンの地をあなたがたに渡す」と言われたときに、法的な所有権がイスラエルに移行した。
しかし、実際に戦わない限り、その地の所有者にはなれない。
だから、神はその後に「行って、征服しなさい」と命令された。
我々は、キリストにあって、世界の所有者である。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5・5)
それは、法的な所有者であって、実際的ではない。
実際的に所有者になるには、サタンと戦わねばならない。
法的な権利があるのだから、この戦いは、「掃討作戦」である。
もはや支配権を失った敵軍の残党を掃討するのである。
サタンは、キリストの十字架と復活、昇天において、支配権を失った。
だから、我々の戦いは必ず勝利する。
千年王国は必ず拡大し、完成する。