ウイットネス・リーとその教会について2
<Perter様>
(4)イエス自身も神と人の混ざり合った存在であり、クリスチャンもイエスとまったく同じ神・人になり、神化されると言います。
<tomi>
イエスは、神の第2位格であり、神そのものです。彼は、存在論的に神です。しかし、クリスチャンは、キリストにつながれて法的・契約的にキリストの権威を与えられているだけであって、存在論的・実体的な神ではありません。ですから、キリストと我々とは質的にまったく別の存在であると考えなければなりません。
<Perter様>
(5)彼らは独自の聖書(回復訳)を持っており、いろいろと疑義が提示されています。自分たちこそは堕落したキリスト教を作新し、歴史信条の見落としていた真理を回復する、回復の教会、主の回復であると自称しています。
詳細はこちらを見ていただきたいと思いますが、いかが評価すべきでありましょうか。
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1143545295/
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1139585285/
よろしくご教授をお願いいたします。在主
<tomi>
神の三位一体間の関係や、神と人間の関係は、契約的・法的側面と、実体的・存在論的側面を混同すると、誤謬に陥ります。
神は法的・契約的には一体であり、一人の神ですが、存在論的には3者であり、それぞれ別個の存在であられます。キリストが御父のうちにあり、御父が子のうちにおられる、というのは、法的・契約的一致を表現したものであって、存在論的な一体を述べているのではありません。
三位の神は互いに契約を結ばれ、一人の神であられるが、内部において権威の序列があり、子は父に従って世にくだり、十字架につかれた。聖霊は、御父と御子につかわされて、世においてクリスチャンを助けておられる。
イエスが「命を与える霊」になったという聖書の個所も、存在論的にイエスが霊化したということではありません。もしイエスが霊になってしまったら、人間の贖い主としての資格を失ってしまいます。
イエスは、被造物であり、肉体を持つ人間の頭でありつづけなければならない。そのためには、肉体を脱ぎ捨ててはならない。今でもイエスは肉体において天におられる。
神は、契約的一体を「一」の原理として、実体的・存在論的個性を「多」の原理としてお持ちであり、両者の性質を同時に所有しておられる。
神の意図された被造世界は、この神の「一と多」の原理を反映している。
男女は夫婦となって契約的に一となるが、存在論的には多である。
人間の知恵は、この両者を調和させることがなかなかできません。「一」を強調すると、存在論的にも一と考えてしまう。だから、イエスが霊になっただの、御父が子になっただの、という誤解が生まれる。
2006年3月30日
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