紀元70年以降のユダヤ人クリスチャンの運命とは?
マタイ25章において、旧約のユダヤ人への審判が記されている。
これを聞いてある人は、びっくりするだろう。
「え、それは、世界の最終審判なのでは?」と。
違う。
文脈を見てほしい。
23章でイエスは、誰に対して審判が下ると嘆かれたか?
「ああ、エルサレム、エルサレム。」と言われたではないか。
24章でイエスは誰が破局に会うといわれたか。
「あなたがたが見ているこの神殿が崩されずに・・・」といわれた。
つまり、当時のユダヤに建っていた神殿である。
そして、24章では、イエスはこれらの前兆は「この世代が過ぎ去るまでに起こる」と明言された。
となれば、25章は、当然、世界の審判というよりも、イスラエルに対する審判と考えねばならない。
25章において、羊と山羊が分けられ、一方に永遠の命が、他方に永遠の刑罰が下ると言われている。
さて、紀元70年に神殿が崩壊し、イスラエルに最後の審判が下ったときに、山羊のユダヤ人は永遠の地獄に入ったのだろうか。
イスラエルのどこかに穴があいていてそこに落とされたのだろうか。
違う。
彼らは、「異邦人の間に散らされた」のである。
これが、25章の永遠の刑罰の意味である。
山羊のユダヤ人、つまり、イエスを信じないノンクリスチャンのユダヤ人は、刑罰として国を奪われ、世界の異邦人の様々な土地に散った。
聖書において、異邦人の象徴は、海である。
ノアの箱舟の記事において、悔い改めなかった人々は水の中に放置された。
ノアの家族だけが箱舟に入って救われた。
ユダヤ人にとって、異邦人の間に散らされるということは、ノアの箱舟に乗れず、水の中で滅んだことを意味するのである。
それに対して、羊のユダヤ人、つまり、クリスチャンは、どうなったのだろうか。
今日、彼らも同じように異邦人の間に散ったと考えられているが、違う。
それならば、審判の意味がないではないか。
彼らには明らかに違った結末が待っていた。
彼らは、箱舟に乗って水から救われたのだ。つまり、異邦人の中に散らされたのではなく、陸に上がった、つまり、契約の民ユダヤ人の住む場所に行ったのだ。
ユダヤ人は、バビロン捕囚後、70年にわたる神の刑罰から解放され、ユダ、ベニヤミン、レビ族がパレスチナに帰ったが、他の部族は、東に向かって歴史から消えてしまった。
私は、彼らは日本にやってきたと考える。
アミシャブもユダヤ人の本隊は、日本に入ったと公式見解を発表している。
それゆえ、紀元70年当時、日本は、ユダヤ人にとって「陸」だった。
歴史から忽然と消えた、ユダヤ人クリスチャンたち。
彼らの主体は、日本に来たのではないだろうか。
もちろん、ヨーロッパやアジアに伝道のために残ったユダヤ人クリスチャンもいただろう。
しかし、本隊は、日本にやってきたのではないだろうか。
検証をお願いする。
2007年7月31日
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