なぜ聖書なのか?
<R様>
>このまえは質問にご丁寧に答えていただきありがとうございました。今回もいくつか質問があります。
1、聖書はなぜ正しいと言えるのでしょうか?それを裏付ける証拠はあるのでしょうか?
ホームページを見てみると「神を信じるにあたって疑うことからはじめてはならない」と書いてありましたがクリスチャンではない未信者にとっては聖書も初めは疑うはずです。
そして証拠も必要なわけです。こういった場合はどうやって信じさせるのでしょうか?やはり「信じなさいそうすればすくわれるのです」という言い方しかできないのでしょうか?
人間の論理が全ての権威ではなく聖書がすべての権威だと書いてありましたが、聖書を信じてない未信者にとってはそれはどうしようもない論法なのではないでしょうか?
やはり問答無用でとにかく信じることからはじめなければいけないのでしょうか?(不快に思われたかもしれませんが私はとても混乱しています。どうかどのように捕らえればいいのか教えてください。)
<tomi>
1.新約聖書は、イエスの証言者によって記されたため神の言葉なのです。
律法には、「二人または三人の証言によって事実が確認される」とあります。
ですから、イエスは、弟子たちを必ず複数連れて奇蹟などを行われました。彼らは使徒と呼ばれました。使徒は、イエスによってじきじきに選ばれ、証言者として任命されたため、特別の権威があり、聖書の各書は使徒によって記されたために権威があります。
では、その旧約聖書の律法が本当に正しいのか、という問題になりますが、旧約聖書、そして、そのうちに含まれる律法は、神が預言者として権威を与えられたモーセや、他の預言者によるものであるがゆえに権威があります。
では、その預言者が本当に権威があるのかという問題になります。預言者が勝手に自分で権威をつけたのではないかと。
「私は神に任命されて預言者になった。だから、私の預言は神からのものである」という循環論ではないかと。
しかし、いかなる思想もつきつめれば循環論になります。
科学といっても、循環論から抜け出せません。「証拠があるから」といっても、その証拠が本当に証拠であることを客観的絶対的に証明することなど不可能です。
たとえば、科学者がある法則、たとえば、万有引力の法則を発見したとします。しかし、その法則が絶対に正しいことを証明することは不可能です。なぜならば、人間は全知ではないからです。
100億年後に、同じ条件で、木からりんごが落ちるか、誰も証明できません。
法則が、常に、必ず、例外なく適用できるとするのは、信仰なのです。
また、たとえば、ある対象を観察した際に、その対象が網膜に映る像について考察することがその対象そのものについて考察したといえるのか、ということまで問題にすると、きりがありません。
だから、約束として「網膜に映った像について考察したことを、その対象そのものについて考察したことにしよう」という約束の上に科学は成立しています。
科学的証明は絶対ではなく、科学的認識論ですらある前提を持ち、そこから出発しようとの約束事であって、「徹底的に客観的」などというものを科学は提供できません。
有限な人間は、何かの前提を設定する以外に思考することは不可能です。
聖書は、「聖書啓示を前提とせよ」と命令しています。
科学は、「人間は認識できるということを前提とせよ」と命令します。
2.聖書のほかに、我々人間が出発点としなければならないのは、自然です。
私たちは、神について、聖書の教えが正しいことを示す証拠に囲まれています。
自然界、人間、あらゆるものが我々に神を証明しています。
「え〜、自然を見ても神を否定する人がいます」と反論されるかもしれませんが、彼らは嘘をついています。
神は自然を証拠として人間の前に提示しておられるので、人間は神の存在を疑うことが「できない」のです。
「私は絶対に神を信じない。神が存在する証拠などこの世界に存在しない!」と断言した瞬間に神はその人の目の前に証拠を出される。
動かしがたい証拠を。
だから人間は反論できないのです。もし反論している人を見たら、うそつきなのです。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1・20)
結論:
人間が神を信じるか、否かは、真理を素直に受け入れるか、それをなかったことにして押し殺し、自分を騙すか、の違いであって、「信じられる証拠が存在するかしないか」の違いではありません。
2、色んな宗派がありますがどの宗派が正しいのでしょうか?また聖書も宗派によって違っているようですがどの聖書が正しいのでしょうか?やはり66巻が正しいのでしょうか?
その場合どういうわけで66巻が正しいのでしょうか?
真理と呼べるものは、聖書だけです。人間が作った宗派や教派には、副次的な権威しかありません。
聖書にどれだけ忠実な教えを信じているかによって、正しさに差があります。
聖書は、旧約聖書の場合同じですが、新約聖書の場合写本によって違いがあります。
ただ、根本的な部分において無数に差があるというわけではありません。
正しい新約聖書と思われるのは、マジョリティ・テキストに基づくものと思います。
その翻訳は和訳ではありません。
しかし、現在我々が利用できる和訳翻訳でも、信仰を得て真理を得るための土台としては十分に機能します。
3、私は親を恨んだことはあります。私は今すぐにでも死ななければいけないのでしょうか?
悔い改めるなら、どんな罪でも赦されます。
4、旧約には姦淫をしたものは殺されなければいけないと書いていて新約では姦淫の女はころされませんでした。一体どっちが正しいのでしょうか?
旧約と新約はどのように線引きして判断したりすればいいのでしょうか?
姦淫は死罪です。それは、いつの時代にも変わりありません。
ただし、姦淫罪は、配偶者に対する契約違反であり、その罪の被害者は配偶者なので、配偶者の罰則決定によって、死刑になることもありますし、無罪になることもあります。
旧約律法の規定は、「最高刑」なのです。
新約聖書において、イエスが姦淫の女を赦されたのは、律法を超越したわけではありません。イエスは絶対に律法を破ることはされません。
あれは律法を超越した判決ではなく、あの制裁の非合法性にありました。
あの女は裁判にもかけられず、しかも、証言者自身が同じ罪を犯していたため、証言者に証言する資格がなく、合法的な制裁が成立しなかったからです。
2009年3月10日
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