クリスチャンの体、集団、家こそが聖地であり礼拝場である
礼拝において聖霊が下る。
クリスチャンにとって毎週の礼拝のひと時は、安らぎと充実である。ある意味において快楽ですらある。
聖霊に満たされて祝福を感じるので。
礼拝とは、契約的合一であり、神の臨在の場である。
イスラエルの神殿礼拝において、聖霊が下った。
幕屋においても、雲の柱という形で聖霊が下った。
結婚も契約的合一である。
礼拝においても、結婚においても、個々の主体は互いに「他者」である。
他者でありながら、一つとなる。
一体となったからといって、一方が他方に変化するのではない。
それぞれはそれぞれのままである。男は女に変化せず、その逆もない。
人間は神に変化せず、またその逆もない。
神と人間はそれぞれ別の存在である。
人間が神と合一するというのは、「契約的に」である。
この原理を理解しないから、汎神論の考えが生まれる。
神道には、この誤謬がいつからか入ったようだ。
靖国神社では、人間が神として祭られている。
神道において神と人間の区別があいまいである。
聖書において、神と人間の区別ははっきりしている。
しかし、聖書においては、人間は神との合一を得られるという。
クリスチャンの体は神殿であり、その中に聖霊が住んでおられる。
旧約の神殿や幕屋は、クリスチャンの体の象徴である。
旧約における神殿は、一時的なものであり、それは、旧約の完成の日、つまり、新約時代に、クリスチャンの体として完成されるべきものである。
だから、我々の体は、移動式神殿であり、そこにおいて神と人間の契約的合体が行われる場である。
今の時代において、ある建物を神殿とか教会と呼んではならないのはこのためだ。
新約時代において、神殿や教会は、我々の体なのだ。
礼拝が行われる場とは、我々の体であって、特定の場所や建物ではない。
だから、我々は、「この場所でしか礼拝はできない」と考えるべきではない。
自分がいる場所どこにおいても礼拝の場である。
我々自身が礼拝場なのだ。
今日、聖地旅行とか、聖なる場所とか言われているのは、一つの象徴であり、実体は我々の体である。我々の体が聖地であり、聖なる場所である。パレスチナの土地は、旧約時代において聖地であったが、今は普通の土地である。
今は使用されておらず、かつて使用されていたことを示す博物館の蒸気機関車のようなものだ。
新約時代になって、実体として線路を走っている機関車は我々の体である。
だから我々がパレスチナを聖地としてありがたがる必要はないのだ。
我々クリスチャンが集まるとき、そこも聖地である。キリストはそこに聖霊を通じて臨在してくださる。
クリスチャンの集合体も契約によって一つの体であり、クリスチャンの集会はそれゆえ聖地である。
結婚した男女が同じ家に住むように、聖霊は絶えず我々とともにいてくださる。
神と人の契約的合一は、我々の体において「絶えず」実現しており、それゆえ、我々の体において常に礼拝が行われていると言える。
(2)
家は、神にあって契約的合一をした男女の場である。
だから、家は、エデンの園であり、礼拝場である。
神と夫婦は互いに契約を結んで一体となっており、それゆえ、家は神殿なのだ。
聖書では、神聖な場所では履物を脱がねばならなかった。
シナイ山で、モーセは履物を脱ぐように命令された。至聖所で祭司は履物を脱いだ。
おそらく、日本の家屋において履物を脱ぐのは、このユダヤの宗教の伝統から来たのだろう。
同じセム系宗教であるイスラム教でもモスクの中では靴を脱ぐらしい。
家の中は神聖であるとの認識から日本の家屋では靴を脱ぐのだろう。
家の前に塩を盛るのは、結界を作るためだろう。
日本の家屋が塀で囲まれているのは、神殿と認識されているからだろう。
家の中は神聖な場であり、礼拝の場である。
我々は、家の中を聖別し、外界を俗とし、穢れたものが入らないようにすべきだ。
聖書では、異なる教えを持つ人々を家に上げては成らないと言われているが、それは、家の中が穢れるからだろう。
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。(2ヨハネ10)
籠神社の先代宮司・海部穀定氏は、『元初の最高神と大和朝廷の始原』という書の中で、「神道の本質は、多神教ではなく、唯一絶対神信仰だ」と解いているようで、元初の大神こそ、古事記冒頭の「天御中主神」と述べているようだ。
http://ameblo.jp/toki-t/entry-10023616768.html
2010年2月11日
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