永遠の世界において裕福になろう
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。@
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。 A
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。B
また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。C
しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカ16・9−13) D
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「不正の富で友を作れ」における「不正の富」とは「悪いことをして得た富」という意味ではない。
Aにおいて「小さいこと」と「大きいこと」が、Cにおいて「他人のもの」と「あなたがたのもの」が対比されているので、Bにおける「不正の富」と「まことの富」も対比されている見るべき。
となると、「不正の富」は「まことの富」の逆の意味だとわかる。
つまり「真実ではない富」「むなしい富」「はかない富」のこと。
「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」
つまり、「むなしい富」を用いて、永遠の住まいに招いてくれる友人を作れ。
聖書では、永遠の富と比較すれば、この世界の富ははかないと教えられている。
すぐに消えてなくなってしまう。泥棒が来て盗むかもしれない。詐欺にあって取られてしまうかもしれない。
われわれは、死後にまで富を持っていくことはできない。
1000億の資産家も、乞食も、どちらも死ぬときは裸である。すっかんぴんになってあの世に行く。
だから、この世の富に執着するのはばかげている。
じゃあ、われわれは「この世のことにかかわるな!」と考えるべきだろうか。
違う。
ディスペンセーショナリストはそう考えるが、聖書にはそのような教えはない。
聖書は、「この世の富を利用せよ」という。
「むなしい富だから放置してよい。財産なんかにこだわるな。政治や経済について無頓着でよい。」などという教えは聖書にはない。
聖書は、「この世のむなしい富を用いて永遠の世界に入るを準備せよ」と教えている。
つまり、この世界でどのように財産を用いたかは、永遠の世界における報いに直結していると。
この世の富は、来世の富に比べれば「小さな事」である。
この世の富は、来世の富に比べれば「不正な富」である。
この世の富は、来世の富に比べれば「他人のもの」である。
つまり、この世の富は、「テスト」なのだ。
会社における昇進と同じようなものだ。
会社において昇進させる場合、上司は自分の普段の仕事ぶりを見ている。
平社員のときの仕事は小さな仕事である。その小さな仕事において忠実でない人をどうして課長に抜擢するだろうか。
神はわれわれの今の生活を見ておられる。
神がわれわれに与えられた資産をどのように使っているか見ておられる。
お金、もの、時間、機会、地位、権力、権威、家族、会社、…
われわれに属するあらゆるものについて評価しておられる。
それについて忠実であるか、それを神のために用いているか、神の国の拡大のために使用しているか…
自分のために使っているならば、それは、もはや永遠の住まいに入れない人間であることを証明している。
テストに合格しない人間をどうして神は御国につれていかれるだろうか。
神にも仕え、また富にも仕えるということはできない。
つまり、自分のためにのみ富を使っている人間は、偶像礼拝者であり、永遠の住まいには入れない。
この地上の生活はすべてテストである。
われわれの人生全体が勤務評定の対象である。
自分の所有物は神から任されたものであり、自分のものではない。
この他人から預かっているものを使って、自分の本当の財産を築くべきだ。
永遠の世界において裕福になろう。
2010年11月6日
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