心の病巣を取り除くツール


(1)
最近、TVにあまりにも多くのオカマが登場する。

服装倒錯、同性愛は、聖書において明確に禁止されている。

こういう人々が人々の目に触れるようになったのは、戦略なのだと思う。

つまり、我々の目を同性愛に慣らさせるための。

我々の道徳の基準を破壊しようとしている人々がいる。

進化論やヒューマニズムの基準に慣らされ、相対主義者の教育を受けた我々は、これらの人々を見て、


いいんじゃない?自分の好きな道を歩んでるから。。。

と考えるようになっている。

しかし、神はそのようにはごらんにならない。

神は、同性愛の文化を火で滅ぼされた。

ソドムとゴモラは火で焼かれた。

だから、我々がこれらの芸能人に目が慣らされることは非常に恐ろしいことである。

心の中で、神に逆らう領域が生まれるから。

我々の心は、口の中の歯のようなもので、虫歯になっているものもあれば、そうではないものもある。

いったん虫歯になると、その駆除はたいへんだ。

歯医者に通って治療しなければならない。

削って病巣を取り除く。

もしくは手術する。

心もこれと同じで、病んでいる部分もあれば、健康な部分もある。

同性愛者を見慣れてしまい、同性愛に同意するということは、心の中に虫歯ができたようなものだ。

いったんできたら、それを追い出すのは容易ではない。

病気は他の部分にも影響を及ぼすから、心全体が、神に反する状態に変化する。

神への反抗心にとらわれる。

最後には、神への嘲笑に終わる。

詩篇1篇によると、罪の最終段階は、「あざけり」である。

罪が心全体を冒して、機能不全に陥って死を待つのみの段階に達すると、人間は神をあざけるようになる。

最初のうちは、虫歯ができると毎回歯医者に通っていたが、何本もできるようになって、開き直り、「虫歯で何が悪い?」と言うようになった人間のようだ。

歯が全部だめになってものがかめなくなり、正常な食生活が送れなくなる。

最後には、「治療に行ったほうがいいよ」と忠告する人々を馬鹿にするようになる。歯医者という存在そのものも馬鹿にする。

こういう横車を押している人間は「自殺志願者」である。

これと同じで、神を馬鹿にし、クリスチャンを馬鹿にし、逆に同性愛者を賛美するようになったら最終段階だ。

火で焼かれる直前だ。

我々は、大なり小なり、心がパッチワークのようになっている。

神に捧げていない領域がある。

不信仰の領域が。

その領域には、サタンが住み着いている。

虫歯菌が、治療しないと徐々に進行し、歯全体を駄目にするように、心にできたその不信仰の領域は放置すると徐々に心を駄目にしていく。

「人を恐れる」領域は、日本人に多い病巣である。

「人が何を考えているか、感じているか」が非常に自分の中で大切になるように教育されるからだ。

ノンクリスチャンのいとこに「おまえ、そんなこと言っても世の中がそういう風に考えないんだから仕方がないじゃないか。そっちに合わせないと。」といわれたことがある。

世の中がそういう風に考えなくても、聖書がそう考えているならば、そちらに自分の基準を合わせるべきだ。

世の中が何を評価し、どういう価値観を持とうが関係ない。

えっ?「生きていけなくなる」?

そんなことありません。虫歯がなくても人間生きていけます。

聖書と異なる価値観はすべて虫歯と同じ「病気」なのだ。

学校教育の最大の問題は、「違うことを信じると、人間関係をやっていけなくなるのではないか」という恐れを育てる場になっていることだ。

社会は、学校とはまったく異なる。

社会は、いろんな人がいて、それぞれ羽色が合うもの同士が集まって小さなコロニーを作って生きている。

その羽色が合うものの中でうまくやっていければよいのだ。

学校は違う。

人々のプレッシャーにさらされる場だ。いや、学校教育とは、あえてそういうプレッシャーにさらして、人々を偶像礼拝者に変えることを目的としている。

なぜならば、近代学校教育の起源が、ドイツのプロイセンの国家崇拝に基づく「集団主義」にあるからだ。

嘘と思うなら自分で調べてみたまえ。

ラッシュドゥーニーは、ヒューマニズム教育の歴史についてMessianic Character of American Educationという本の中で述べている。

我々は、学校を卒業するころには、すっかり心が虫歯だらけになっている。

人目を気にする「偶像礼拝者」、病人として卒業する。

聖書に堅く立って動じない健康な人間としてではなく、逆になって出てくる。

(2)
近年、同窓会がよくもたれていて誘いがくる。

大企業に勤めている連中の思考法を再確認する場となっている。

「ああ、昔俺もこうだったなあ」と。

昔のことを考えると、大企業に勤める人間は、「あわせられないやつは駄目なやつ」と考えている。

毛色の違う人間がいると、それを自分と同じ色に染めようといろんなプレッシャーをかける。

プレッシャーに負けて、それに染まるようになると、「病気の世界」に入るので、「健全だと考えている状態が心を侵食する」。

周りがみんな病人の中で一人だけ健康だと、健康であることが悪いように錯覚するようになる。

学校教育から企業教育まで、個の確立を徹底して妨害され、精神的な奴隷とされている日本の社会人が見る世界とは、「奴隷のめがねを通じての世界」である。

職場においても、家庭においても、心からくったくなく笑うことができなくなっている。

これらすべては、神に頼るという健全な教育を受けてこなかった悲劇である。

「人を恐れると罠に陥る。しかし、主に信頼する者は守られる」。

「支配者の顔色を伺うものは多い。しかし、人を裁くのは主である」。

この聖書の御言葉こそが、心にできた病巣を取り除くツールである。

 

 

2010年5月7日

 

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