プレ・ミレでは教会を励ますことができない4
> 富井先生,皆さん,お久しぶりです。プレミレのご論考,興味深く拝読していま
> す。
> 実は,中田重次の直弟子(もう80近い?)の牧師と信仰があります。言ってみれ
> ば,プレミレの親玉です。昼食(お互いに軽くワインを飲む)の折,牧師は,「終末
> も再臨も大事だ。でも,終末終末! 再臨再臨!と浮き足だって何か良いことある
> の?」とおっしゃっていました。
> その牧師は,実は,事業家を兼任していて非常に商才に長けており,「その辺に
> ミッションスクールが出来るらしい」という情報をいち早くキャッチし(大学と提携
> している訳じゃない),農地を買いあさった上で,学生用アパートを建て,儲けてい
> ます。大学・学生からも,貧乏農家からも感謝され,しかも儲けるというので,クリ
> スチャン実業家としては見上げたものです。
> 「先生(私のこと)! 株に投資するよりも私に投資しなさいよ」とおっしゃって
> いました。
> 実際のところ,自称「プレミレ」の人も本当のところは(生活感・人生論レベル)
> ではかなり違う思想・神学を持った人が多いように思えます。それが酒の席でぽろっ
> とでたのでしょう(笑)。
まさに、実業家ほどプレ・ミレでは駄目だということを悟っている好例ですね。
ある実業家から、「プレ・ミレよりも、tomiさんの考え方のほうが会社の社長なんかは好むだろうね」と言われたのを思い出します。
終末や再臨が切迫していることを強調しても、何が良いことがあるのでしょうか。
それで会社の業績が上がりますか?
「終わりが近い」ということによって、人々は無作為になる。
「この株は近々大暴落します」と言って、株を売りつける証券マンはいません。
切迫再臨論は、有害無益のカルト教です。
> 統一協会関係の訴訟で,お世話になっている牧師(カルバン派系の福音派)と話し
> たこともあります。神学的雑談が出来る弁護士はその辺にはいないので,結構深い裏
> 話もしてくれたのですが「先生(私)。だからね,ア・ミレがちょうど良いのよ」と
> 言っていました。教会には「レフトビハインド」宣伝ポスターが貼ってあり,「先生
> の教会,こんなの推奨しているのですか?」と聞いたら,「いやさー,いのちのこと
> ば社とかライフセンターとのつきあいがあって」と弁解していました。
ア・ミレは、別名「地上的期待を奪われたプレ・ミレ」と言います。
なぜならば、ア・ミレは、「この地上においてクリスチャンは王ではなく、それゆえ、クリスチャンが勝利する保証はない」と唱えるのですから。
プレ・ミレの場合、同じことを唱えますが、最後に「しかし、千年王国時代が始まれば、クリスチャンは王となれる」と付け加えるので、地上における勝利という意味では、ア・ミレほどひどくはないのです。
ア・ミレは、最悪の悲観主義的終末論なのです。
それを勧めるなんてのは、終末論の内容がまるでわかっていないからでしょう。
まあ、この手の議論に対して、人々はあまり関心がないということなのかもしれませんね。
再建主義に関して、ポスト・ミレだけは、非常に抵抗が強くなかなか浸透しません。
そんなに早く終末が来て欲しいのでしょうか?
私は、クリスチャンが、どんどんと金儲けをして、クリスチャンの団体や宣教師や牧師に金が渡るようになり、もっともっとこの世界がよくなればよいと考えています。
クリスチャンは王であり、王権をすでに与えられているのですから、実際に、王らしくなる必要があります。
つまり、この地上で最も裕福で、豊かで、力を持つべきと考えています。
> 年に1回統一協会関係の合宿をやるのですが,3−4人の牧師と温泉につかってい
> たところ議論になり,「先生方の考え方は,ヒューマニズムじゃないですか?」と批
> 判しました。私自身,かなり保守的なルター派なので,その辺の「福音派牧師(同盟
> 教団)」より,ずっと保守的なわけで,「先生がちゃんと提言して女性牧師の道を開
> いてくださいよ」などと言われました。
> ブログで「キリスト業界」の話をしているのですが,ある程度うち解けた関係にな
> ると,結構,すごい話が聞けます。
>
> http://d.hatena.ne.jp/Barl-Karth/
女性牧師を認めるならば、聖書からはっきりと女性が牧師になることを承認できるだけの根拠を提示できなければなりません。
女性解放なるヒューマニズム的運動の尻馬にのってクリスチャンも同じことをするならば、彼らと同じサタンの罠にはまります。
男性と女性は、キリストと教会、つまり、保護者と被保護者、権威と権威下の者の関係を象徴しています。
男性はキリストの権威を表すべく、礼拝において被り物をかぶってはならず、女性も、短髪の場合は被り物をかぶるべきです。長髪は、神が女性に与えられた「保護を受ける権利」を表すしるしです。
これは、性別によって、人間としての価値に差をつける男女差別主義ではありません。
人間として男女に価値の差はありません。
しかし、人間は単独で生きているわけではなく、社会の中において生きているわけですから、神が立てられた権威の差があります。
この権威の差を守らないと、どの社会でも混乱し、収拾がつかなくなります。
たとえば、社長の命と、社員の命は神の御前において、本質的に価値の差はありません。
しかし、会社の中において、社長は命令を出し、社員はその命令に従うことによって、会社がうまく機能し、統一的な行動を取ることができます。
聖書では教会において、女性が男性を教えることに対して禁止命令があります。
聖書が設定した権威の差について、もし聖書が違うことを教えているということが事実であるならば、反対論者は根拠を示し、意見を述べるべきだと考えます。
2005年9月28日
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