レビ人をないがしろにしてはならない


「あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。」(申命記14・27)

神学生のころ、ある長老から「献身者って、会社務めよりもキツくないだろう?」と聞かれた。

あきれてものが言えなかった。

彼は、大手企業に勤めるサラリーマンだった。私も大手企業に勤めたことがあるから、そのキツさはよく知っている。

しかし、御言葉の教師としてのキツさが会社勤めのキツさよりも弱いなどということはまったく言えない。

なぜならば、大手企業に勤めていた時には金のことで苦労することはほとんどなかったからだ。

御言葉の教師は、財産所有を許されていないと思う。旧約のレビ人には土地の所有が許されていなかった。だから、レビ人は、御言葉の奉仕によって利益を受けている人々からの浄財によって生活する以外にはなかったのである。

人は、一度献身すると決意したら、神のものである。

御言葉に仕える者となると決意したら、神はそれを即時に決定事項として受け取る。

少しの決断でも、決断した時点で、その人の人生はすべて神の所有である。神は、所有権を主張し、他の仕事に就くことを許されない。

もちろん、アルバイトはできるだろう。パウロはテント作りというアルバイトをしながら伝道した。

しかし、本業を2つ持つことは許されない。

私は、このことを幾度となく体験させられた。御言葉の教師になると大学生の時に決意してからそれ以外の道はなかったのである。

神はあの決断を覚えておられ、私に二股をかけることを許されなかった。他の仕事をしている時に常に「場違いなところにいるなあ」という意識が離れなかった。

献身したら最後である。あなたは神の所有物である。神の奴隷である。まな板の上の鯉である。どう調理されようと神の思うがままである。

レビ族に生まれた人は、御言葉に関わる仕事に就く以外に道はなかった。彼らには相続地の割り当てがなかったので、農業をすることができない。

我々、御言葉に関わる仕事に召された人間には、常にジレンマがある。それは、ぎりぎりの生活を強いられてこのままでは身動きが取れないが、しかし、他の仕事に就くこともできない。

するどい刃物の上を歩かされているかのような状態である。

「生活に困ったら会社に就職すればよいじゃないか。」と考えるかもしれないが、(献身者になれば分かるだろうが)そんなことはできないのである。精神的に苦しくて、身の置き所がないのである。

これは、献身者でない人々に説明しても理解されないだろう。

かつて、献身する際に、神学校の先輩から「献身者は、他のことをしたら呪われるよ。」と警告された。

たしかに、私がこれまでの体験でイメージする献身者の道とは、「モーセが海を渡った際にできた道」のようなものである。わき道に逸れると、海の中に巻き込まれて溺れてしまう。

細い道をまっすぐに歩む以外にないのである。

献身者とは、神に召されてなる仕事であって、自由選択の職業ではない。これは、神の命令であり、それゆえ、そこから離れる者にはのろいが下る。

だから、献身者は、恐れおののきつつ職業に励み、また、他の人々は、彼に対して、(彼が御言葉をまっすぐに解き明かしている場合に限り)神の権威を認め、敬意を払い、金銭的に無視しないという責任がある。

「あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。」

 

 

2005年11月17日

 

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