教会のリーダーシップを取り戻そう!


先日のLUKEさんとの討論において、「律法と福音」「契約」という非常に重要なテーマが論じられました。

旧約と新約の間の違いは、これまで一般に誤解されていたような「律法と無律法」の違いというようなものではなく、「モーセ律法と確立されたモーセ律法」の違いであるということが明らかになりました。

メルキゼデク系の律法を「御霊に従うこと」(=「非律法」)として扱う人々に対して、私は、それはまぎれもなく「律法」であり、それも「確立された律法」であると主張しました。

新約時代を「律法のない時代」としたがる勢力があります。

それは、律法があると仕事がやりにくくなる人々なのです。

それは誰でしょうか。そう。神を差し置いて主権を取りたいと考えている人々です。

教会に忍び込んだヒューマニストたちは、ひそかに「クリスチャンから法を取り去る」ことを狙っています。

そして、彼らに「別の法」を植え付けようとしています。その「別の法」とは、ヒューマニズムの法=人間を主権者にする法です。

あのサイトにおいて、私に対して反対した人々は「律法を拒否していない」と口では言いながら、しかし、実質的に「律法は無効だ」と述べていました。

あるディスペンセーショナリストは、「今は律法の時代ではないから」と言って反対しました。

これがキリスト教界の現状です。

つまり、イエスの主権を侵す人々によって教会が占領されているのです。

繰り返すようですが、法を否定する人は、その国の主権を認めない革命家なのです。

新約になって施行されたとヘブル書が主張するメルキゼデク系律法は、モーセ律法の完成型です。

レビ系律法(モーセ律法)が予型的・地域的・民族的・時代的であったのに対して、メルキゼデク系律法は、本体的・普遍的・超民族的・超時代的です。

レビ系律法の動物犠牲は、メルキゼデク系律法における(キリストという)本体を表す型であり、象徴です。

ヒューマニストたちは、旧約と新約の変化を次のように描きます。

1.モーセ律法 → モーセ律法の廃棄
2.モーセ律法 → 御霊に従うこと

昔のディスペンセーショナリズムは、1を主張していました。
最近は、契約神学を取り入れて、「生活を指導するモーセ律法」を認めています。

2は、1の変形です。本質は同じ。彼らは、御霊に従うことは律法を守ることを必然的に含むと言います。たしかに。だからといって、律法に向かう(ひとつひとつの律法を調べて、それを生活のあらゆる分野に適用する)必要はないという結論を出すことはできません。これは明らかに詭弁です。

聖書が教えているのは、御霊に従いつつ、律法を調べて、それをひとつひとつ守るべきだ、ということです。

それゆえ、本当の、旧約と新約の違いは次のとおり:

モーセ律法 → 確立されたモーセ律法

「確立された」とは、すでに何度も述べたように、「キリストという本体が現れたので、モーセ律法の予型的・時代的・民族的・地域的性質が本体的・超時代的・超民族的・普遍的性質に変わった」ということです。

「信仰は律法を(廃棄するのではなく)確立する」(ローマ3・31)のです。

新約になったら、律法は消えてしまったのではなく、むしろ、確立されたのです。

もし教会がこの真理をしっかりと把握すれば、もはやヒューマニズムによって教会が荒らされることはないでしょう。

教会がその正常な姿を取り戻すのは至難の業です。

なぜならば、教会のトップにヒューマニストが座っていることが圧倒的に多いからです。

サタンは、教会ののっとりに成功してきました。

それは、「律法は廃棄された」と主張することによって。

「律法は廃棄された」と露骨に主張しなくても、「現在は律法が通用する時代ではない」とか「現在は御霊に従うことによって、逐一の律法の条文へのこだわりは不要になった」と主張することによって。

キリスト教界は壮大なペテンにひっかかったのです。

御霊によって生まれた本当の神の民ならば、私の説明に首肯されることでしょう。

さあ、取り戻しましょう。教会のリーダーシップを。

異なる主権を立てようとしてきた人々によって無律法地帯と化した教会に、神の主権を再建しましょう。

 

 

2005年10月31日

 

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