祈りの効果を実験科学的に調べることは冒涜である


米研究チームが祈りの効果があるかどうか調査したという。


祈りの効果信じますか?=米研究チームが心臓手術患者1802人を調査
【シカゴ 3月31日 ロイター】 − 米国で心臓バイパス手術を受けた患者1802人の回復を神に願って、他の人が捧げた祈りにいやし効果はあるのかというユニークな研究テーマに取り組んだ米国の研究者チームが3月30日、その研究結果を公表した。残念ながら、結論は、癒し効果は認められなかった。  同研究は、「アメリカン・ハート・ジャーナル」誌の最新号に発表されたものだが、それによると、そればかりか、周囲の人が祈ってくれていることを知って、手術に臨んだ人々の術後の回復は、ただ、祈りを捧げてもらえるかも知れないと告げられただけの患者よりも、思わしくなかった。

これは冒涜である。

実験科学、経験科学は、帰納法的な手法であり、何らかのドグマを前提として持たない。つまり、この場合だと、「信仰と義による祈りは神によって聞かれる」ということを疑うことから出発している。

疑う人は、何かを得られると考えてはならない、と聖書にあるので、不信仰の人々が神について何かを知ることはできない。

「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」(ヤコブ1・6-7)

神に関する知識の前提は「へりくだり」である。神を試す人は傲慢であるから、たとえ何らかの実験をして知識が得られたとしても、その知識は不正である。

神は「ねじまがっている者にはねじまがる方」である。

「きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。」(2サムエル22・27)

謙遜に素直に悟りを求める人々には真理を教えるが、疑う人、傲慢な人には偽りの霊を送られる。

「神が存在するか調べてみよう。」と言って実験をする人々の目の前に、神がホイホイと出て行かれるだろうか。

「神が祈りを聞かれるかどうか調べてみよう。」と言って実験をする人々に、神がホイホイと祈りを聞くだろうか。

こういうことをする人々は、神をラットと同等に扱っているのである。

「籠に入ったラットが、このエサを与えた場合にどういう反応をするか?」というような実験を神に対して行っているのだ。こんな無礼なことをして、裁かれないとでも考えているのだろうか。

現代の科学者の決定的な間違いは、「人間は主である」という前提から出発し、「人間は万物の尺度である」「人間の判断が最終である」というドグマに依拠していることにある。

「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(出エジプト記20・7)

 

 

2006年4月2日

 

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