無千年王国説は物事を後退させる by ゲイリー・ノース


聖書律法と創造の関係について、無千年王国論者が信じている理論[訳者注:無千年王国説とは、この地上において教会が勝利する時代(千年王国時代)は存在せず、これから終末に向かう歴史において、善が悪に勝利する保証はないとする終末論の一派。]は、まったく後退的であることに今気付くべきである。明らかに、サタンは、この考えが正しい理論であればよいのにと考えている。彼は、自分の従者たちにこの理論を信じさせたがっている。

しかし、首尾一貫した考え方をするクリスチャンがこのような教えをどうして受けいれられることができるだろうか。
「聖書律法に忠実になれば、文化の面で無能になり、思想的混沌(サタン的な革命思想)に打ち込めば、文化の面で勝利できる」というような教えをどうしてクリスチャンが信じられるだろう。

無千年王国論者たちがこのように言おうとしているわけではないということは十分承知している。しかし、実際に、無千年王国説を信じれば、このような結論に至らざるを得ないのである。

オランダのカルヴァン主義者たちは、文化命令(支配の契約)を教えていたが、同時に「それは成就しない」とも教えていた。

しかし、聖書律法は文化命令の成就にとって基礎である。そのため、「文化命令を成就したいならば、聖書律法を用いずにそうしなければならない」と教える無千年王国論者は、混沌宗教の陣営(神秘主義者、革命主義者)か、自然法、共通基盤的な哲学者の陣営のいずれかに入らざるを得ないのである。
選択肢は4つしかない。啓示法、自然法、混沌、混合。

これは、私を次の点に導く。それは、幾分憶測に基づくものであり、完全には正確ではないかもしれない。しかし、それが正確であるかどうかを調べることは必要である。

オランダの法哲学者ヘルマン・ドーイウェールトの思想が1960年代と70年代初頭に、なぜオランダのカルヴァン主義知識人の間で一時的に影響力があったのだろうか。私は、ドーイウェールトの領域主権の理論「領域法は啓示された法つまり旧約聖書律法であってはならない」が、文化命令の(オランダ)無千年王国論的解釈と調和していたことにその理由があると考えている。

ドーイウェールトの体系とオランダ無千年王国説は、本質的に無律法主義である。これこそ、私が、ドーイウェールト学派に属するアムステルダム自由大学教授A・トゥルーストに対して、『社会的無千年王国説』(1967年)という小論を書いた理由である(Gary North, The Sinai Strategy: Economics and the Ten Commandments (Tyler, Texas: Institute for Christian Economics, 1986), Appendix C: “Social Antinomianism”)。

クリスチャンとノンクリスチャンの間を繋ぐには、ドーイウェールト主義者は結局神秘主義者になるか、そうでなければ、新しい種類の「共通基盤的な哲学」を作ろうとするしかない。

ドーイウェールトの弟子たちは、ますます過激で、ますます無律法主義的になり、反キリストの道を進んでいる。これは、彼の想定した領域法の「内容」に対して旧約聖書と新約聖書が権威を持つことを、彼自身がはっきりと拒絶したからである。

支配の契約を説きながら、回れ右して、文化に対する聖書律法の効力を否定することはできない。しかし、これこそ、一般恩恵を信じるすべてのオランダ人が行ってきたことなのである。

彼らは、聖書律法が文化に対して必然的に効力があるということを否定する。なぜならば、彼らの終末論的解釈を受け入れるならば、「忠実なクリスチャンがこの歴史の中で、この地上において、文化的に勝利することなどありえない」と結論する以外にはないからである。自己認識は進むだろうが、事態は時間とともにますます悪化する。

仮に読者が「聖書律法は、個人的にも文化的にも『プラスのフィードバック』を生み出す。つまり、神は、この歴史の中で、この地上において、契約を守る者を祝福し、契約を破る者を罰する」と教えたとする。その時、あなたは、成長の体系を説いたのである。あなたは支配の契約を説いたのである。

後千年王国説の聖書律法観を受け入れたくないなら、メレディス・G・クラインがそうしたように、「契約遵守と人生における外的成功の間にはいかなる関係もない」とはっきりと主張する以外にはないのだ。

これこそ、グレッグ・バーンセンが、自身の有名な後千年王国説とは無関係に聖書律法を守ろうとした(恐らく戦術的な理由からだろうが)ことが奇妙に感じられる理由である。

クラインは、セオノミー批評の中でバーンセンの教理を両方とも攻撃した。バーンセンは反対論文の中で、クラインの後千年王国説的終末論の批判に対して応答しているが、しかし、自分の終末論は聖書倫理とはいかなる論理的な関係もないと述べたのである。

しかし、「聖書律法の『契約的』概念と終末論の間に必然的な関係があるということは疑いようもない事実である」というクラインの主張は正しかった。クラインは、新約聖書の契約的法秩序の概念を否定し、後千年王国説も否定した。

無千年王国説を信じるカルヴァン主義者たちは、最終的に自らの無千年王国論的終末論を捨てない限り、これからもドーイウェールト主義者や神秘主義者、自然法妥協論者、あらゆる種類の無律法主義者によって苦しめられるだろう。

聖書律法は説かれねばならない。聖書律法は文化再建のツールとして認識されなければならない。聖書律法は「今」、この新約聖書の時代において、機能するものと見なされなければならない。

契約への忠実と法への従順の間には相互関係があり、どんなに信者が感情的になったとしても、または、福音が(しばらくの間)いかに甘い香りがしたとしても、服従がなければ信仰もないと考えるべきである。

神の法秩序に従うと、祝福がやってくる。無千年王国論者は、終末における文化的無能を説くことによって、自らを無律法主義という名の蟻地獄に引きずり込むだろう。砂には早く落ちるものもあれば、遅く落ちるものもある。しかし、結局のところ、それらはどちらも、その上を通り過ぎようとした愚か者をみな飲み込んでしまう。

無千年王国説は、無能と後退という名の落とし穴の中に人を引きずり込むのである。


(この論文は、David Chilton, Days of Vengeance (Tyler, Texas: Dominion Press, 1987), Appendix C: “Common Grace, Eschatology, and Biblical Law”, pp. 652-654.の翻訳です。)

 

 

2005年2月6日

 

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