不信仰を伝染させてはならない!
人間的な心配は一種の暴力である。
それは、心配しているという形を取っているが、操作であり脅迫である。
心配の背後にはサタンがいる。
サタンは人間の心をかき乱して、人間が神の基準に従って「静かに」生きることができないようにするのである。
サタンがエバに対してどのように誘惑したか覚えているだろうか。
彼はこう言った。
「神は本当にそう言われたのですか?」
彼の作戦は、まず「足を払うこと」だった。
人間を誘惑する方法とは、まず立っている土台を崩すことである。
土台が崩されたら、どんなに力強い男でも倒れる。
エバは、神への信頼、御言葉への信頼を崩された。
その後、サタンにとって彼女に罪を犯させるのは簡単なことだ。
我々は次のことをよく知らなければならない。
すなわち、「我々にとって、御言葉だけが唯一の土台である」と。
なぜ我々が心が安定しないかと言えば、それは、自分に頼っているから、もしくは、他の人間的なものを頼っているから。
だから、ぐらぐらするのだ。
相対的なもの、安定しないものに依存しているから、いつまでたっても安定しないのだ。
我々は、「あの人がこう言っているから。」とか「学者がこう言っているから。」とか「教祖様がこう言っているから。」とか「自分の経験ではこうだから」とか、いろんな頼るものを持っている。
しかし、こういったものは裏切る。人生の中でこういったものは裏切るので頼りにならない。
心配が起きたらどうしたらよいだろうか。
自分の経験を思い出すだろうか?
自分の実績を思い出すだろうか?
他人の言葉を思い出すだろうか?
だめだ!そんなもの。
御言葉を思い出せ!
そして、「御言葉がこう言っているのだから・・・」と考えて、安心せよ!
御言葉は最終のとりでである。
御言葉は神の言葉であるから、これ以上の権威はない。御言葉にたてつく人間も悪霊もいない。
サタンですら、イエスが御言葉で返されたときに退却せざるを得なかった。
御言葉は決定打なのだ。これですべては解決するのだ。
だから、御言葉を思い出したらそれで満足すべきだ。
「いや、満足できません。」というだろうか。
満足できなければ、満足するように自分を強制するべきだ。
「自分の気持ちが向かないのです」???
向かなければ、向けるように強制して何度も何度も失敗を繰り返しながら、自分の信頼力を鍛えることだ。
人間の心は、生来、低いほう、楽なほうに流れる。
そして、それは、生来悲観的である。信仰が欠如している。
だからトレーニングが必要なのだ。
信頼するトレーニングが。
鞭を打ってでも信頼する訓練をつむべきである。
このトレーニングができていないから、いつもグラグラしているのである。
神にとって、弱い者を助けるのも、強い者を助けるのも同じことである。
だから人間の側には問題は何もない。強くたって弱くたって、神に頼れば助かるのである。
神に信頼できない心のぐらついている人間は、人を指導できない。子育てもできない。子供は心配性の親によって、絶えず脅迫される。
心配するということは、周りの人間を巻き込んで、その悪霊の渦の中に人々を巻き込み、みなを落ち込ませ、不幸にすることを意味するのだ。
悲観的な気持ちをサタンは利用するので、心配性の人々の周りにはサタンや悪霊がわんさかやってきて、人々の心に悪い思いを植え付けていく。
心配とは、サタンの決定的な道具である。
それに巻き込まれてはならない。心配が起きたら即座に「下がれサタン!主の御名によって命じる、立ち去れ、そして、永遠の地獄に入れ!二度と出てくるな!」と言いなさい。
心配を他の人に伝染させるならば、悪魔の領域がそれだけ拡大する。
悪魔の領域は自分の心の中で抑え、自分の中で徹底処理すべきである。
不信仰を伝染させてはならない!
2006年11月4日
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