キリスト教とバルト主義
ヴァン・ティル著『キリスト教とバルト主義』(Phil:Presbyterian and Reformed publishing Company, 1974)を参考に、バルトについて語る。
バルトが学生だったころ、キリスト教とモダニズム(リベラリズム)の戦いは苛烈をきわめていた。
モダニズムは、主要な論戦で勝利を得ただけではなく、この戦い全体においても勝利を得ようとしていた。
神はキリストを通じて人間の贖い主であるのだろうか? それとも、人間は誰をも必要としない欠けのない存在なのであろうか? 神は、キリストと聖霊を通じて、人間に語られたのであろうか? 聖書において、真理と義について語られたのであろうか? それとも、人間は神の啓示がなくても、自分自身で何をすべきかを知ることができ、神の助けなしでもそれを行うことができるのだろうか?
こういった質問に対して、当時、教会ですら、「人間は神の助けを必要としない。人間は自分に対して神である。」という意見を表明する始末であった。
20世紀の始め、ヨーロッパにおいて、モダニズムはほぼ最終的勝利を勝ち取った。人間の人格は、「人間存在を自己統治するための創造的原理」と考えられた。(John McConnachie, The Barthian Theology and the Man of Today, 1933, p. 31.)
1906年、20歳のときに、バルトはこの現代リベラル神学の影響をじかに受けた。そして、それは、「続く十年間、彼の思考を支配することになった。」(Arnold B. Come, An Introduction to Barth’s ‘Dogmatics’ for Preachers, p. 25.)
Comeによれば、バルトが牧会を開始したときに、彼は「確信的・好戦的なリベラリスト」であった。(Ibid., p. 28.)だが、「心の無意識の部分には、強固な改革派神学の土台があった」(Idem.)。
バルトは、その後どうなったのだろうか。無意識の部分にある改革派教理と、大学で学んだリベラル神学とを調和し、妥協の道を歩んだのであろうか。
バルトは、ある時、友人の若い牧師Thurneysenにあててこう書いた。
「先週の土曜日、酔っ払いが自分の家の2階の窓から私に向かってこう叫んだ。『どっか行け!この薄汚い神父!雷野郎!おまえが歩いた跡には、ぺんぺん草も生えやしねえ!』」(Ibid., p.34.)
こういった実際の経験を通じて、バルトは次第に考え方を変える必要があると感じるようになった。モダニズムの福音で、このような状況にはたして対処できるのだろうか? 深刻な疑いが生じてきたからである。
絶望的な気持ちになったバルトは、聖書を再び研究しはじめた。とくにパウロの手紙を学びなおした。 なんという苦悩! しかし、なんという光だろう! じきに、彼の処女作『ローマ人への手紙注解』を書き上げた。まもなくそれも書き直した。
徐々に、「聖書よりも、自分の期待や哲学的・神学的な先入観を優先しはならない」ということを学んでいった。(Ibid., p. 41.)
彼の聖書研究は成功したのだろうか? 彼は宗教改革者たちの伝統に戻ることができたのであろうか? パウロの手紙の中に神の至高の恵みを読み取ることができたのであろうか?
(A) 神の超越性
『ローマ人への手紙』において、バルトは、モダニズムと決別した。モダニズムは、事実上、神は人間と変わらない存在としたが、バルトは「神は人間と『まったく異なる他者』である」と述べた。
バルトは、「神は上から我々に語りかけなければならない」と述べた。神を「我々が神と名づけたり、経験したり、思考したり、礼拝の対象として拝んだりする者と同一視してはならない」(Karl Barth, The Epistle to the Romans, tr. By Edwyn C. Hoskyns, 1933, p. 31.)と。
つまり、我々が神と呼んだりしているものは、本当の神ではない、というのだ。
「神は私を救ってくださった」と証できるような、体験可能な神は神ではない。
思索や礼拝の対象として選んだ神は神ではない。
「神とは純粋な否定である」(Ibid., p. 141.)神は、ご自身をイエス・キリストにおいて現されたが、やはりこの啓示の中においても、まだお隠れになったままである。「イエスにあって、神は秘密になられる。神は、知られぬお方として知られるようになり、永遠の沈黙の中でお語りになられる。」(Ibid., p. 98.)
バルトは言う。使徒パウロは、この絶対他者の神について語っている。真の説教者は、同じようにしなければならない。つまり、聴衆が、この「隠れた神」以外の何者も把握することのないような説教をしなければならない、と。
読者はすでにお気づきと思うが、これは矛盾の言葉である。「自己を隠すために自己啓示した」?おかしいよ。
「御父を明らかに示してください」と願った弟子に対して、イエスは、「私を見た者は、父を見たのです。」とお答えになった。神は、イエス・キリストにおいてご自身を啓示され、我々に分かるように示してくださったのである。どうしてこれが隠れることなのだろうか?
神はイエス・キリストにおいてご自身を明らかにされた。明らかにされたということは、文字通り明らかにされたのである。それは、「神のすべてを余すところなく示された」ということではない。「我々人間が知るべき部分を示された」ということなのである。
バルトは、モダニズムがあまりにも神を安っぽくしすぎたことに対する反動として、「隠れた神」と言い出したのであろう。
「君たち、神を分かったと言っているが、神はそんなに簡単に分かるような存在ではない。もっと深遠で奥深い存在だ。」ということ、つまり、神の威厳性、神存在の不可知性を強調しようとしたのではないだろうか。
しかし、バルトは、このような意図がたとえあったとしても、間違った推論をした。「彼は、神は知られざる存在である」ということを、聖書が教えている部分を超越して、極端な意見にまで拡張した。
「神は簡単に分かったなんて言えない威厳のある存在だ」まではいい。しかし、ここから「だから、我々人間が経験したり、礼拝したり、祈ったりする神は神ではない」とあらぬ方向に議論を拡張するのは間違いである。
そんな「知られぬ神」ならば、なぜ「自己啓示」したか分からないではないか。意味がないではないか。イエス・キリストにおいてご自身を明らかにされたのであれば、我々が礼拝をし、体験をし、祈ることのできる相手でなければ意味がない。
「神の不可知性」を正統的な意味から、間違った意味に拡張したバルトは、キリスト教を神秘化した。
彼は、神を、何がなんだかわからない神にしてしまった。
私は、これをモダニストに対する「かっこつけ」であると考える。難解な理論を展開することによって、そういうのを好む「ハッタリ野郎の集まるモダニズム学界」に自分を売り込んだのである。
幼稚だ。きわめて幼稚だ。勲章が欲しい奴なんて僕は信用しない。
2006年3月17日
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