聖書を知的活動の土台とすべし
LUKE氏は我々を批判して「(聖書とは無関係に生きている)普通のおじちゃん、おばちゃんの良識を否定し、それの代わりに自分の考えを植え付けようとしている」と述べた。
彼は、「必ずしも聖書などなくても人間はうまくやっていける」と考える自然主義者である。
人間の生来備えている理性に白紙委任状を与える者はクリスチャンではない。
聖書は、「自分の知恵に頼るな」と警告している。
神の啓示と自分の知恵とがぶつかった場合には、神の啓示のほうを選択しなければならない、と。
なぜ聖書は生来の理性、知恵を否定するのだろうか?
それには主に、2つの理由がある。
(1)人間は堕落してしまい、理性が不完全なものになっているから。
(2)人間は神の被造物であり、それゆえ、神の意見に服従すべき存在であるから。
(1)
人間は堕落し、そのあらゆる部分が(大なり小なり)病的状態になった。
人間は生まれながらにして、目が狂っている。
人間は生まれながらにして、(A)自然的事柄に関して認識能力が不完全であり、(B)霊的事柄に関して完全に盲目である。
(A)自然的事柄に関して、我々は、本来アダムが持っていた完全な理性、知力、判断力にとうてい及ばない。
もしアダムが堕落しなかったら、人間ははるか昔に現代の機械文明のようなものを築き上げていただろう。
今ごろ、人類は戦争もなく、平和に暮らしていだろう。
(B)霊的な事柄について、生まれながらの人間は盲目である。生まれ変わっていない人々(つまり、ノンクリスチャン)は、聖書を読んでも分からない。ちんぷんかんぷんである。霊的な事柄は神に属する事柄であり、聖霊がじかに教えることなしに理解できない。
堕落すると同時に、汚れた者の中に入ることができない聖霊は人間から離れた。そのため、人間は霊的に死んだ。
クリスチャンになると、汚れを清められ、キリストの功徳によって自分が功徳を積んで清められたとみなされるので、聖霊が帰ってこられる。
そのため、霊的な事柄に対する目が開かれるのである。
(2)
人間は堕落していなかったとしても、神の教えは必要であった。
なぜならば、人間は神の被造物であり、神の臣下だから。
エデンの園において、人間は神の啓示なしに自然的状態に放置されていたわけではなかった。
最初の最初から、神は人間に啓示をお与えになった。
だから、人間は本来「神の啓示を必要とするもの」である。
堕落しようがするまいが、人間は神の啓示なしではやっていけない存在として創造された。
(3)
我々が本来の創造世界を回復するためには、知識に限界を設けなければならない。
今のヒューマニズム科学のように、人間の知的活動を無制限に認めると大変なことになる。
進化論のように、人間と動物の本質的な差を否定することさえする。人間から尊厳が失われる。各個人は、進化の過程で宇宙の片隅に生まれ、しばらくして消えてゆくゴミのようなものでしかなくなってしまう。
我々は「人間の知的活動において、聖書は前提である」と主張する。
前提とは、相撲の土俵における輪のようなものだ。
「自由に闘ってよいが、この輪から出てはならない」という制限だ。
科学は、帰納的認識の方法による。現象を見て、実験して、データを集めて、そこから法則などを導き出す。
神学は、演繹的認識の方法による。ある権威(ドグマ、教条)があって、それを絶対的前提として、個別の事柄を検討し、判断を下していく。
人間が神の被造物である以上、神学を帰納法によって行ってはならない。神を疑ったり、聖書を疑うことは、人間にはそもそも権利がない。
神が本当に神であるならば、神を裁くことのできる者は誰もいない。
「神は裁き、人間は裁かれる」のであって、その逆はない。
もし逆が成立するとすれば、その神とは神ではないのである。
だから、人間が被造物である以上、神と聖書は前提以外の何物にもなりえない。
(4)
「聖書を科学の前提とすることは、科学の自由な活動を規制することなのでは?」と尋ねる人がいるだろう。
しかし、それは不自由を意味しない。
ルールが人間を不自由にするためにあるのではなく、かえって解放するためにあるのと同じように、枠となる聖書は人間の知的活動を解放するのである。
土俵から出て、場外乱闘する相撲を誰が見たいだろうか?
建物なんて関係ないと言って、人間が建物の構造を無視して、10階の窓から外に出れば、下に落ちて死んでしまう。
「いや〜、中世から近代のはじめに科学者が、教会から迫害されたではないですか」という人がいるかもしれない。
聖書は、「天は地球を中心に回っている」などと教えていない。
科学者を迫害したのは、当時の学界を支配していたスコラ学者である。スコラ学とは、アリストテレスの科学を絶対視しており、自然科学の領域に演繹法的認識論を採用した。
ガリレオは、アリストテレスのドグマに逆らったため罰せられたのである。
(5)
人間は聖書を知的活動の土台としなければならない。聖書の枠内に入っている限り、人間は自由に知的活動を行うことができる。
しかし、聖書の枠からはみ出した場合、それは、自分自身の首を絞めることになる。
学問の世界においても、日常の生活においても、無政府状態と混沌、混乱を避けたいならば、聖書という不動の土台を据える以外にはない。