中傷する牧師や教師へ
昨年、顔合わせをしたある教会の牧師が、私の神学が危険だと言っているらしい。
おいおい、である。じゃあ、どうしてあの時、私にそういわなかったのか。私に直接言うのではなく、私の友人を呼び出して言うのか。
それによって、彼は私について疑問視をし、私が彼にとって信頼がなくなったらどうするのか。
仮にこの牧師が私に対して、何度か理由をきちんと説明した上で警告をし、「その教えを捨てなさい」とはっきり述べたのであれば、私はある程度納得する。
しかし、彼は私にそのような警告や忠告を一切しなかった。
ただ雑談と、ちょっとだけ神学について話しただけだ。
その話も、「私は神学について話を聞くと頭が痛くなってねえ。」と自分の「感想」を述べただけだ。
そんな話でどうして私の神学が危険だと分かるのだろう?
危険だというなら、ちゃんと話をしよう。そして、どこが危険なのか教えて欲しい。
牧師や教師にとって致命的な失敗がいくつかある。
女、金、中傷だ。どれをやらかしても、廃業だ。
中傷とは「伝聞とかうわさなどで人を判断し、相手から直接話を聞くことなしに、相手について評価を下し、間違った情報を流して、人や立場の評判を落とすこと」だと思うが、これは、明らかに罪だ。
私は、私の立場が危険だとか言う牧師や教師に対しては直接聞くことにしている。影響が大きいからだ。
しかし、まともに返事をする人はいない。
話をそらすか、ヒステリックに拒絶の姿勢をとるかどちらかだ。
こんな態度しか取れないなら、なぜ人のことを悪く言いふらすことができるのだろう。実を刈り取りたくないなら、種をまかないことだ。
クリスチャンに対して何かをすることは、キリストご自身に対してそれをしているのと同じであることをわきまえるべきだ。
私は自分の考えについて、昨日今日思いついたことを述べているのではなく、20年考えに考えぬいたものを提供している。そして、それなりの努力をしてきた。
歴史的な著作を読み、正統的な流れを抑えるために、神学校にも行き、知識の習得に必要だと思われる本やテープ、CDを買い、また、十年かけて英語の著作を速読できるようにした。
これまで誰も主張したことのないような極端な説を唱えたことなどない。日本の古代に関すること(いわゆる日猶同祖論)については、仮説として提供しており、区別している。
だから、どうして私の立場が危険だというのか不思議でならない。
新しいものがでたらみんな危険だと考えているのだろうか。
そもそも、私の見解は、新しくないのだ。昔当たり前に信じられていたが、教会が誤謬に逸脱したために、当たり前だったことが当たり前ではなくなっただけの話だ。
「危険だ」という前に、よく勉強して欲しい。
そして、何が正しくて何が間違っているか、自分の偏見や先入観を捨てて、聖書から学んで欲しい。
人のことを危険と呼ぶなら、それくらいの努力はしてからにして欲しい。
2004年8月2日
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