汎神論は多様性を犠牲にした一致を求める


<Witness Lee>
新約聖書においては神は命としてのご自分によって人を再生するために来られました。ヨハネ1:12は「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子となる特権をお与えになった」と言います。私達が神の子供たちとなったとき、私達は神の命と性質を持ちました。山羊は山羊を産みますし、牛は牛を産みますから、確かに神(God)は神々(gods)を産むのです。もし牛が牛を産み、山羊が山羊を産むのに、神が人を産むのであれば、これは明らかに何かおかしなことです。産み出されたものは産み出したものと同一でなくてはなりません。
牛がロバを産むとか、山羊が犬を産むとか言うようなことはあり得ません。
神の心の願いは私達を神ご自身と同じ存在とすること、それは私達が内側の形や外側の姿ばかりでなく、神の命と性質において神と等しくされることなのです。私達再生された神の民は神の命を持っており、また神の性質も 持っています。これはきわめて尊いことです。
(Witness Lee, "The Stream", Volume 16, Number 1, June, p.4, LSM, 1996)

<tomi>

「もし牛が牛を産み、山羊が山羊を産むのに、神が人を産むのであれば、これは明らかに何かおかしなことです。産み出されたものは産み出したものと同一でなくてはなりません。」

神から生まれるものはすべて神であるならば、全被造物は神にならなければならない、ということになります。牛も山羊も神でなければならない、と。

これだとやはりこの立場は汎神論になります。

聖書の教えは、「被造物は神に似ている」ということであって、神そのものということではありません。

神と被造物の間には、絶対に越えられない壁があります。

「神の心の願いは私達を神ご自身と同じ存在とすること、それは私達が内側の形や外側の姿ばかりでなく、神の命と性質において神と等しくされることなのです。」

聖書が述べる神の願いとは、私たちが神と等しくなることではなく、似ることです。聖くなると言っても、神と同じ聖さになることではなく、神に似た聖さを持つことです。

この立場の根本的な誤りは、「契約的一致」を「存在論的な一致」と混同しているところにあります。

人間はキリスト契約に入るときに、神と契約的に一体化するのであって、存在論的に一体化するのではありません。

夫婦が一体となると言っても、同一の人物になり、片方が病気にかかれば、もう片方が病気になるわけではありません。

なぜならば、この一体化は「契約的一体化」だからです。結婚において男女は契約的に一人となる契約を結びました。

しかし、存在論的には二人は二人のままです。

神は、この契約的一体化が軽んじられないために、男女の一体化をセックスという形で表現されました。あたかも肉体が一体化したかのような形態を与えました。

家族という契約的一体についても、子供が、胎内にいるときに、胎盤を通じてあたかも母体と一体であるかのような形態をお与えになりました。

しかし、それでもやはり、母と子は一体ではなく、擬似一体でしかありません。母の血液型と子の血液型が異なる(場合がある)ことからも分かります。

契約的一体は、存在論的な一体に限りなく近い形態を取っていますが、しかし、やはり存在論的な一体ではありません。

この世界の目的とは、神と被造物の合一です。しかし、神と被造物が存在論的に一体化するということではなく、それぞれの存在を保ちながら、契約的に一体化、和解、調和することです。

神から離反した被造世界は、キリストの十字架において和解し、法的な合一が達成されました(コロサイ2・20)。

しかし、実際的には、まだ被造世界は神に反逆しており、和解は成立していません。クリスチャンの活動を通じて、政治、経済、生活、などあらゆる領域が神と和解し、一体化していきます。

神に逆らって戦争ばかりする政治が、平和を求める政治に変わり、聖書にしたがって、神を中心とした政体に変わるときに政治は神と和解します。

被造世界すべてが互いに和解し、そして、神と和解するときに、神の創造の目的――すべてが一つとなること――が達成されます。

しかし、何度も言いますが、これは多様性を犠牲にした一致ではありません。

汎神論のように、存在論的にも一致させると、多様性は消えてしまいます。

神の御心は、被造物それぞれの個性をそのままにし――というよりも、個性を発展させ――、その上で互いに和解し、結び合い、一体化することです。これは、契約的一致です。

オーケストラの目的は、個性を生かしつつ一致することにより、すばらしい音楽を提供することにあります。

もしバイオリンが他の楽器に対して、みんなバイオリンになりなさい、と言って、全部バイオリンになったら、オーケストラの魅力はなくなります。

「違ったままで一致する」ということこそ、聖書が教える神の創造の目標なのです。

汎神論は、「一致はすなわち存在論的に同じになること」と主張しますから、聖書の教えではありません。

 

 

2006年4月9日

 

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