聖書に記された晩年の失敗
晩年のアブラハムとモーセ、ダビデの試練は、クリスチャンが晩年に犯す罪の代表だ。
(1)
アブラハムは、自分の子イサクを捧げよ、燔祭にせよと言った。燔祭とは、自分の献身を表す儀式だ。
自分の全存在が神の所有であると告白する儀式である。
晩年になると、自分の子供を後継者にしたがるものである。
これ自身は間違いではない。人間は、子孫を通じて地を従える使命が与えられているからだ。
アブラハムは当惑した。契約によれば、自分の子供を通じて神の契約は拡大し、全世界の種族が祝福されるはずではなかったか。
アブラハムの苦悩は、単に「子供への愛」だけの問題ではなかった。神が約束されたことを信じて生涯を主に捧げてきたのに、どうして突然今までと矛盾することを要求されるのか、と。
これは献身者の苦労である。「献身したのだから、神は私を通じてこのように自分の業績を発展させてくださるはずだ」と信じている。
この信仰そのものが間違いであるはずがない。我々は、主に従うことによって報いを受け、自分の仕事が発展することを期待できる。
しかし、神にはやり方があるのだ。神は我々の期待を裏切る形で、ご自身の主権性を示される。
「普通ならこうだろう」と思っていたことの逆が起きる。
アブラハムの場合、恐らく「このイサクを通じて、神は私の子孫を繁栄させてくださるに違いない。だから、イサクとその将来の子供たちはますます栄えるはずだ。」と考えていたのではないだろうか。
しかし、神は彼に与えた大きな計画、将来図と矛盾されることをされた。
その約束を受け継ぐはずの子供を捧げなさい、というのだ。
神に捧げた一生を頓挫させるような非常に不可解な命令である。
「御霊は風のように思いのままに吹く」。
神の主権性の理解は、当惑する出来事を通じて養われる。
人間の思いを裏切る形で、神は偉大さを啓示される。
映画「パッション」を見て冒涜と感じたのは、あまりにも人間の枠組みの中でイエスを捉えていたからだ。ギブソン監督の稚拙な理解がそこに現れている。
本当に召されたクリスチャンならば、イエスをあのような人間的な野卑な姿に描くはずがない。
ベンハーのように少なくとも顔を映さないはずだ。
イエスの絵がクリスチャンセンターなどで売られているが、冒涜である。
人間の理想像、期待する像を描いている。人間のイメージによって神を限定する。
神は本当のクリスチャンにはこのような冒涜を許されない。だから、本当に訓練されているクリスチャンは、人生の中で何度も矛盾にぶちあたる。
「あれっ、神様、私はこんなにあなたに従いたいと思っているのに、どうしてこんな逆のことが起きるのですか?」と。
我々の計画では、「我々の働きは素晴らしいのだから、きっと主は大きな力を我々に与えてくれるに違いない。」と考えるが、力どころか、逆に恥や不名誉、失敗、挫折がやってくる。
主に従えば従うほど、逆のことが起きる。
こういった主の側の裏切りとも思える報いに我々は最初のうち当惑するだろう。
しかし、これが主の方法なのだ。人間の期待をわざと裏切る。人間の計画を粉砕される。
こういう訓練を積まない人間、とんとん拍子で人生が進んだ人間は、ギブソンのように神を冒涜するのだ。
神のなさることは予測不可能だ、神は不思議なお方だ、との恐れを抱かないクリスチャンはまだまだ訓練が足りない。
アブラハムは、晩年になってこのような当惑する事件に遭遇した。
サラに子がなかなか生まれないことを通じて十分に神のなさる不可解さを体験したはずだ。
しかし、なおもこのような出来事が起こったということは、我々は晩年にいたっても、訓練が必要だ、ということだ。
人生の終わり近くになれば、神は我々の期待通りに動いてくださるはずだ、などと考えてはならない。
神は最後の最後に至るまで徹底して我々の思い通りには動かれない。
神が主権者であって、我々が主権者ではないということを骨の髄まで認めること、これこそ本当の信仰だ。
晩年になってこの問題で失敗する牧師がいた。
息子を跡取にしたいため、いろんな人間的な手を尽くした。そのために、教会員を騙したり、長老を追い出したりしてまで。
そのためにまともなクリスチャンが教会から去った。
自分が主権者になろうとするからこういう横車を押すことになる。
「神に委ねて待つ」ということができないと大きな失敗をする。
(2)
モーセの失敗は怒りだった。
イスラエルの民が、水がないと言って反抗した。いつものモーセなら、まず主の前に出てお伺いを立てたはずだ。しかし、彼は伺いを立てず、怒りにまかせて岩を打った。そこから以前と同様水が出てきた。
神は怒られた。そのため、モーセは約束の地の手前で召されなければならなかった。主のために働いてきたのに、その労苦の果実を自分で味わえない。大きな刑罰である。
問題は、やはり高ぶりにあった。
ある牧師が信徒の側から多くの反抗にあったときにこう言った。
「私は思い切ったことをするつもりです」と。
実際思い切ったことをした。
怒りにまかせてむちゃくちゃな裁判を開いた。
正当な訴えをした長老を追い出した。
当然信徒は騒ぐ。正当性がないからだ。
しかし、怒りにまかせているから、そんなのお構いなしだ。
結局、すべてを失った。
ほとんどの教会員が出て行った。
牧会者として晩年に襲ってくる反抗に、怒りにまかせて処理するとこうなる。
今まで積み上げてきた業績や名誉をすべて失うことになる。
まず神に伺いを立てよ。サタンは人生の締めくくりに最後の大きな試練を用意するかもしれない。感情にまかせて動くと大変なことになる。主に伺いを立て、指示に従うべきだ。
自分が労苦した実を刈り取れないことにもなりかねない。
(3)
ダビデは、晩年に人口調査をした。主からそれを止めろと警告されていたのに。
自分の権力の確認と税の計算をしたかったのか。
老人になって確固たる地位を確立しても、それを自分の力に求めるならば、大きな失敗が待っている。
よく「牧会歴40年。私は・・・」と自慢する牧師がいる。そして、誰の意見も聞かなくなる。
それがあたかも自分の手で実現したかのように業績を誇る。
ある牧師は「みなさん。あなたがたが救われたのも、私が伝道を始めたからですよ」と集会で自慢した。
その信徒のほとんどが消えた。
こういった自慢話が口から出てくるようになればおしまいだ。
人生の総決算の日に「私ではなく恵みでした」と言うべきだ。
実際、どんなに努力しても一人の信徒すら我々は生み出せないのだから。
ビリー・グラハムも晩年になって背教した。
恐れるべきだ。我々がもし信仰を持っているならば、それはただ主の恵みであり、もしなにがしかの業績を残しているなら、それもただ主の恵みだ。
自分に一つの功績を帰すならば、それが呪いとなるから注意が必要だ。
2008年8月20日
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