律法はいのちを与えないか?8


<LUKEさん>

この逆は真ですね。つまり、まずそれを行なえるいのちを得ることにより、

「xがいのちの御霊法則を満たす(十分条件)⇒xがモーセ律法を満たす(必要条件)」
 
ですから、私たちが満たせばよい前提条件は、いのちの御霊の法則に従うこと(=御霊に従うこと)で十分なのです。すなわち責任を負うのもこの法則あるいは御霊に対してです。

論理学的には、「モーセ律法を満たすための十分条件はいのちの御霊の法則を満たすこと」です。われわれサイエンティストはこのように論理を用いるものですが・・・。

<tomi>
「私たちが満たせばよい前提条件は、いのちの御霊の法則に従うこと(=御霊に従うこと)で十分なのです。すなわち責任を負うのもこの法則あるいは御霊に対してです。」

つまり、「御霊に従えば、責任を果たしたことになり、律法を守る必要はない。」と。

この議論には大きな欠陥があります。

御霊に従うとは何か?それは、神の御心に従うということですよね。聖霊は神ですから。
御心はどうやって分かりますか?
聖書ですよね。
書かれた啓示以外ではありえない。
我々の自然理性は堕落しているので、自然理性に委ねると、御心でも何でもないことを簡単に「これは神の御心だ」と考えるようになる。
こんなものに頼れない。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17・9)
「自分を知恵のある者と思うな。」(箴言3・7)
「自分の悟りにたよるな。」(箴言3・5)

もし万が一「御霊が与えられたのだから、聖書なんていらない。祈っているうちに御心は分かってくる。」といわれるなら、これ、まったくの異端になります。ニューエイジの黙想主義。

御霊に従うという内容は、実は、御言葉に従うことなのです。

そして、その御言葉には、旧約聖書の律法も含まれるのです。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3・16)

ここで「聖書」とあるのは旧約聖書です。パウロがこの手紙を書いた時点でまだ新約聖書は記されていなかったから。

旧約聖書を、ユダヤ人は、「律法と預言者(原語に正確に言うと、『律法または預言者』)」と呼びました。旧約聖書は主に律法と預言書に分かれるからでしょう。

ここから、律法は「有益」だということが分かりますね。教えと戒めと矯正と義の訓練を与えてくれる。

この聖句を読んでどうして、

「我々の責任は、御霊に従うことだけだ。モーセ律法に直接向かう必要はない」と言えるでしょうか。

「教えと戒めと矯正と義の訓練を与えてくれる」ものをどうして避けるのでしょうか???

「教えと戒めと矯正と義の訓練を与えてくれる」ものをどうして責任遂行において不要と言うのでしょうか???

おかしいと思いませんか?

また、さらにすでに述べましたが、聖書は、「律法も言うように…しなさい。」と命令していますね。

「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。」(1コリント14・34)

聖書自身が律法は権威であると述べている。

「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 」(マタイ5・19)

権威である律法を守らなくて、どうして責任を十分に果たしたと言えるのでしょうか???

 

 

2005年10月13日

 

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