なぜ聖書なのか?7
現代の伝道者たちは、人間理性を土台とするヒューマニズムの前提に立って人々にキリスト教を勧めようとしているが、間違いである。
聖書の預言者やイエス・キリストは一回もそのようなことをしていない。
逆に、疑いを断罪している。
「なぜ疑うのか?」「ああ、聖書に記されているすべてのことを信じない愚かな人たち!」と。
イエスは、悪霊を追い出すことに失敗した弟子たちの信仰のなさを嘆かれた。
聖書啓示は、土台以外の何物でもない。
「本当に神はそう言われたのですか?」という質問はサタンが発したものである。
我々クリスチャンが人間理性を土台としてそこから出発するならば、これと同じ疑問を自ら発することになる。
「そうだなあ。やはりクリスチャンも客観的にならねばならない。科学的に聖書をチェックしなければならないなあ」などと考えるならば、サタンに騙されたエバと同じ状態になっているのである。
つまり、ぐらついたのだ。
水の上を歩く奇蹟に参加したペテロは波を見て恐れた。恐れると同時にぶくぶくと沈んでしまった。
信仰は完全でなければならない、というのが聖書の教えである。
信仰に一点の曇りや傷があってもならない。
完全に絶対的に信じきらなければならない。
我々の人生は、この完全な信仰に向かう訓練の場である。
「科学的に徹底して調べて確信がもてるまで信じない」というような態度は、偶像礼拝者のそれである。
そもそも神を「選ぶ」というような姿勢が間違いなのだ。それは、神の上に立っていることであり、完全な勘違いである。
もし自分が信じるか信じないか迷っているものが神であるならば、そんな自分を疑うような人間にご自身を示されるはずがない。
ほとんどのクリスチャンは、体験があるだろうが、信仰に入る前には人生で最大の試練にあう。
そこで自信を徹底して粉砕される。なぜだろうか?
自信がある限り、神を下から見ようとしないからだ。
人間は生まれながらに堕落しており、傲慢であり、被造物の身分をわきまえない「勘違い野郎」だ。
人生の成功者がクリスチャンになったら奇蹟だ。
金持ちがクリスチャンになることはまずありえない。
もし金持ちが信仰に入ったのであれば、その前に徹底して自我を粉砕されるような出来事が起きたはずだ。
もうこれ以上落ちようがないというレベルまで徹底して砕かれる。
そうしないと、我々は、「自然に」上から目線になる。
クリスチャンになってからでも、非6日創造説を信じていたり、聖書に対する中途半端な態度があるならば、それは、まだその「上から目線」が取れていないからなのだ。
その傲慢が完全に消し去られない限り、聖書を素直に信じることはできない。
だから、我々が完全な信仰に進むには、自分の傲慢を砕かれる体験の連続であると考えるべきだ。
処女であるのに子供が生まれるとのお告げを受けたマリアが「おっしゃるとおりになりますように!」と言えたのは、自我を破壊されていたからだ。
それに対して親戚のザカリヤが、祭司であるにもかかわらず疑ったためにヨハネが生まれるまで言葉がしゃべれない罰を受けたのは、信仰に欠けがあったからだ。
我々は、聖書に記された神の啓示を素直に受け取れるまでどれだけ苦しまなければならないだろうか。
この人生は、自我の崩壊の訓練の場である。
神を下から見ることができるまで徹底して打ち砕かれる過程である。
2009年3月15日
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